錚吾労働法

九四回 使用者と「法人格否認の法理」
 「法人格」は、権利・義務(「取引財産」)の帰属主体を表示するものであるから、取引関係の展開にとっては必要不可欠な法的技術である。「法人格」は、取引の円滑及び安全や事業主体の対外的信用をも担っており、その限りにおいて永続性をも前提している。しかし、この「法人格」を新設したり、消滅させたり、復活させたりして債務を免れようとしたり、債務を法人に移し替えて自己の責任を免れようと謀る輩もいないわけではない。「一人会社」が承認される時代になった今日、「法人格」の管理が杜撰になる可能性もあり、責任や債務が発生したときに、どの法人がその主体とされねばならないかという問題が多発すると考えられる。
 「法人格否認の法理」は、「手形法」の分野において開発されたものであった。またこれに似ている「一身同体の法理」なるものも、存在している。「法人格否認の法理」は、2ツ以上の法人格が存在するときに、1ツの法人格に問題処理を収斂させる方法である。これに対して、「一身同体の法理」は、2ツ以上の法人格を1コの法人格として扱うことによって問題を処理する方法である。両者は、必ずしも厳密に区別されているわけではないが、このように説明され区別されることができるであろう。労働関係への両法理の適用は、「不当労働行為の救済命令の名宛人」の問題として登場してきたのだった。
 「営業の自由」は、会社の設立も解散も自由であることを前提としている。しかし、会社の取引関係が複雑となっており、雇用する労働者の生活関係とも密接なものとなっていると、会社の解散は、多数の利害関係者に深刻な影響を与えずにはおかない。特に、親会社による子会社の解散が子会社の労働組合員への「打撃目的」でされるときには、労働委員会はその動機の悪質さを直視するのでなければならないし、裁判所も救済命令取消訴訟ではそうすべきである。労働委員会は「法理」を知っている必要はなく、親会社を端的に救済命令の名宛人とするのが適切かつ妥当だと考えてそうすればよろしい。裁判所は、労働委員会がそうしたことがその裁量権に収まっていることを説明する道具としてこれらの「法理」を用いればよろしいのである。
ただ労働委員会としても、廃業や解散した企業に営業再開までを命令する権限を有するものではないことを心得ていなければならない。その反面、廃業または解散してしまった企業ではなく、現にに存する企業であって廃業などした企業との諸関係を考慮すると、不当労働行為上は前者を使用者として問題を処理するするのが[常識」にかなっていると判断するときは、そのようにする裁量権労働委員会に帰属するとするのである。
 [法人格」を異にする2ツの会社であっても、その1つが他の会社の1工場や1部または1課であったもので、「法人格」を別異にした後もその関係に変化が見られないのであれば、労働委員会は、その実態を重視した問題処理をすれば良いのである。
 会社のリストラ策の一環として営業マンを会社から独立させて「一人会社」化することがある。社長となった元社員と会社との関係が、機材や商品の貸与や有償仕入れなどの変化が生じたとしても、従前とほぼ同じであるということもあるだろう。この場合、「社長イクォール労働者」であると労働委員会が判断するのであれば、その判断に従って、その者が在籍していた会社に対してその者が所属する労働組合との団体交渉に応ずるよう命ずればよい。
 これらの例についてここで指摘した問題処理の仕方は、そのいずれも「常識」の範囲内にぞくすることであって、敢えて小難しい理屈など要らないことである。これが労働委員会の良さであり、労働委員会労働委員会たる所以である。「一身同体論」は兎に角として、「法人格否認の法理」をもってする説明は、裁判所に任せておけばよいのである。労働委員会も「法人格否認の法理」を理解すべきだと言えば、「労働委員会の裁判所化」という自殺行為を歩むことになりはしないか。
 「法人格否認の法理」なる知識を公益委員に求めればよいではないかとの考え方もあるだろう。しかし、裁判官が公益委員になる昨今には、裁判官に労働委員会の在り方についての[研修」を実施する必要性もあるのではないか。