錚吾労働法

八三回 公務員制度改革
 合同労組が、民間企業を相手に奮闘している。公務員と公務員の職員団体(労働組合となるだろう)との関係は、「オープン・ショップ」の関係できたし、これからもそうだろう。公務員が合同労組の組合員となれば、合同労組が財務省などに支部を置くことも現実味が無いなどとは言えないだろう。
 この場合、誠実交渉しなかったという不当労働行為救済申立はどこにしたらよいのか。かって公労委があったように、特別な委員会を設けるのか、それとも中労委となるのか、都労医委となるのか。交渉が妥結したら、直ぐにでも予算措置すべき義務が生ずるのか。その義務は、誰の義務となるのか。財務大臣は、妥結内容に拘束され、議会も同様に拘束されるのか。そうでなければ、どうなるのか。妥結額と実際学との差額は、ただ単に債権としてあるのか。裁判所は、それを露光させることが出来るのか。
 妥結額が実現されない場合、その額に相当する労務を一斉に停止することが出来るのか。出来るとすれば、禁止される争議行為を実質的に実行することができるようになるが、そうなったら仕方ないとするのか。あるいは、その分は年次有給休暇日数のプラスαとしてため込むことが出来るようにするのか。はたまた、国債と交換することが出来るようにするのか。公務員宿舎の家賃を、その分値引きすることが出来るようにするのか。
 お金が無い、お金が無いと騒いだ挙句の公務員制度改革であるから、以上のようなことはきちんとしておかないと、スタートしても何も決めてないことになって、混乱状態になる。
 懲戒処分と分限処分は、そのまま維持されるのか。懲戒処分はすることが難しく、分限処分は床の間に飾ってあるという状態は、引き続き維持されるのだろうか。複線的な試験制度は、改革されて一本化されるのだろうか。試験制度をくぐり抜けた有意な人材だから、身分保障しておこうというので、甘い懲戒処分と分限処分とが行われてきた。試験が一本化されれば、そうする理由も無くなる。
 しかし、公務員制度改革は、霞が関クレムリンの解体にまで持ち込まないと意味がない。公務員制度改革は、国家改革でもあるから、国は最低限何をしたら良いのかという議論と連結されていなければならない。人口が減少しつつあるのに、国が肥満しつづけるのはおかしいだろう。徐々に、国の任務をシェイプ・アップしなければならないし、役所も整理統合したり、移転させてよいものは移転させるべきである。道州制を行うのであれば、それに相応しい役所の配置をし、選挙制度もかえなければならない。
 裁判所といえども、公務員制度改革の外に置いておいてはよくない。「星は何でも知っている」かもしれないが、「裁判官は何でも知っているわけじゃない」(このギャグ古いかな)。原子炉問題や薬品問題その他、裁判官は、裁判制度とともに、時代の挑戦に曝されている。民・商・刑で勝負の時代は、とっくに過去の話となっている。国の政策を守る砦が裁判所ではない。訴訟的にち密な職人技の世界が裁判所の世界だったが、またそれゆえに時間がかかっても、国民は辛抱してくれた。いまや、そんな辛抱をせいと言える時代ではない。裁判官も、労働者並みに労働しなければならない。
 公務員制度改革は簡単ではないので、政府は、もっとち密な情報を国民に開示しなければならない。頼みますよ。しっかりやって下さい。いい国にしようじゃないか。