壮吾労働法

二一〇回 有期労働契約と無期労働契約⑤
 日々労働契約は、一日限りの労働契約をいう。一日数時間の労働契約もある。このタイプの労働契約は、一日のうちに当然に効力を失うので、原則として解約はありえない。しかし、一日限りの労働契約が日々連続的に締結されると、形式とは別個の実質的な考慮が必要となる。日々労働契約の契約形態が悪用されると、労働基準法による解雇手続きの適用を免れることとなるが、もっぱらその為にのみ日々労働契約の形式がとられているが、実質的に労働契約が連続的に運用されており、日々労働契約の実質を喪失していることがある。しかも、その労働の内容が、機関の定めのない労働契約を締結している労働者のそれと何ら異なるものではない場合もある。
 かかる場合について、会社は、日々労働契約を締結している労働者に対して明日からは契約しないと通告してよいか。以後は会社と当該の労働者とは無関係とするとする会社の主張は、正しいのか。あるいは、労働者の保護の見地からする論理構成により、このような労働者をどの様に扱うべきかという問題があるというべきなのか。
 この問題の正解は、一様ではない。次のような様々の判断要素を総合的に見て、結論を出すしかないであろう。
 
 

錚吾労働法

二〇九回 無期労働契約と有期労働契約④
 優れた労働者は、我が労働力をもっと高く買ってくれる企業はないのかと、考えるているだろう。「企業共同体(カンパニー・コミュニティー)」論は、今や破産した考え方になってしまった。もっと高く自分を買ってくれる企業はどこにあるのか、どの企業が自分をスカウトしてくれるのかなどと考えて日暮しする労働者も、多分いるだろう。
 ホワイトカラー・エグゼンプションの適用を受けるかもしれない成果重視の働き方を選択したいむきには、転職願望も強くなるに違いない。誰もが認めるような有能な労働者は、そうそういるものではなかろう。企業育成プラス本人の才能と努力とがミックスした業界の能力者に年功賃金でもって処遇してきた仕方は、成果を適切に評価するシステムの開発を怠ってきたのである。
 多様な働き方の中には、労働の成果や期待されるべき成果に従って報酬を受け取る働き方も含まれるであろう。企業と労働者との成果に対する考え方と成果の評価に従った処遇に関するマッチングは、必ずしも容易なことではない。成果主義と残業の割増賃金の不支給とを画一的に設計すべきではない。高級な労働にはより高率な割増賃金の支給があってもよいからである。
 そこが契約の契約たる所以であって、ホワイトカラー・エグゼンプション規定が設けられても、それによらないことの合意は、少しもかまわないのである。しかし、かかる規定をわざわざ設けるからには、当該契約者の一方は「労働者」だという立法者的な自覚があるはずである。「労働者」というときには、伝統的に「保護されるべき者」という観点が付着してきた。この点を踏まえて言えば、成果主義と短時間労働プラス有期労働契約という組み合わせをも用意しておかねばならない。
 成果主義プラス残業代不払いの長時間労働というイメージでのみ語られるならば、それでもなお利点を得ることができる「労働者性」の希薄な労働世界を想念するべきかも知れない。労働者というよりも労務を供給する自営業者というイメージでもって語るのであれば、多少は理解が進むやもしれないであろう。成果主義賃金が、限りなく請負代金に近いと言う場合すら存在する。だから、成果主義なる表現が何を意味しているのかは、実質的に確定されるべきである。成果主義の賃金が、何十年か後に独立自営業者の請負代金に変貌してしまっていることをも想定しておかねばならないだろう。
 成果主義を採用するからといって、それが無期労働契約の労働条件であるのか、有期労働契約の労働条件であるのか、あるいは実質的に請負条件であるのかは、当事者の意思によるべきことである。文書による紛争の防止の心がけねばならない。
 当該の職場でどれくらいの間働くのか、どれくらいの間働く意思があるのかという問題は、労働してはいけない期間、労働する期間、労働から離れる期間(休業の場合、労働とは関係のない人生の期間)と無関係に存在しているわけではない。労働に関わる期間に関する法規定から説明することとしよう。
 1 民法雇用契約の規定は、雇用期間の定めのない場合とある場合とを区別し有期のの雇用契約に関しては一年を超えてはならないとしていた。現行法では、雇用契約の期間については次ように定められている(労働者派遣に係る派遣可能期間については、別途記述するので、ここでは扱わない)。
 ①5年を超える雇用契約民法626条)  
 ②当事者の一方若しくは第三者の終身の間継続する雇用契約民法626条)
 ③商工業の見習い目的の10年を超える雇用契約民法626条)
 ④雇用期間の定めのない雇用契約民法627条)
 ⑤期間によって報酬を定める雇用契約民法627条)
 2 労基法の労働契約期間は、次のように定められている。
 ①期間の定めのない労働契約(労基法14条)
 ②事業の完了に必要な期間を定める労働契約(労基法14条)
 ③3年または5年を越えない期間の労働契約(労基法14条)
 労働契約の期間に関する民法労基法の定めは、雇用契約・労働契約の期間の長短または事業期間に応じた解約の仕方の相違に着眼して定められているものである。民法627条と労基法14条の定めは、期間の定めのない契約に関係するものである。条文を読めば分かることなので、精読をおすすめします。1の②については、当事者の一方が自分の介護のために当事者の他方の介護者と、あるいは、当事者の一方たる者が自分の老親の介護のために当事者の他方の会議者と自分または老親の死に至るまでの間の介護を目的とする雇用契約を締結する場合を考えれば、よくわかる話でしょう。終身の間継続する雇用契約とは、このような場合のことをいうのである。ただ、この種の雇用契約の増加は、家族の負担増や独居高齢者の増加に伴い、避けられないであろう。これに関しては、後により詳しく述べることとしたい。
 
  

 

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二〇八回 無期労働契約と有期労働契約③
 労働者が、その労働者生活をたった一つの会社、一つの役所で開始し、終了する。無期労働契約の着想は、このような着想に胚胎するものである。しかし、よく考えて見ると、労働生活をたった一つの会社、一つの役所で完結するというのは、奇妙なことではある。労働者は、自分の労働力をより高値で売りたい。労働市場論の次元で物事を考えるのであれば、労働者は就職していても、労働力を高く評価してもらいたいし、高く売りたいのである。
 明治時代、大正時代、昭和初期の大学を出た人たちは、この点をよく心得ていた。民から官、官から民への異動は、有能な人物の証でもあった。有能の士は、無期で働くなんてケチでチビた頭を持ってなかったのである。自分を必要とするところへ行ってその能力を発揮したのである。無期だなんて言われるのは、馬鹿にされているんじゃないかと訝りもしたのであろう。自分を必要としている所、自分が貢献することができる所が、大卒の働く場所であった。一箇所で働くとは考えない、つまり何をして貢献するのかという明確な志があった。
 会社や役所が志の高い人物を確保したい、ずっと確保しておきたいと考えても、労働者の方から別の会社へ行くと言われてしまえば、復職してくれよなといって送り出したのであった。しかし、今では、志の高い労働者は、鐘太鼓を叩いて探しても、見つけるのが難しい。産業が成熟して、製造業が海外移転してしまえば、会社の仕事も役所の仕事もたいした代わり映えのしないものとなり、官民間の労働移動は無きに等しいものとなる。国内労働市場の活力は、無きに等しいものとなる。
 無期の労働契約は、元々は、好ましくないものと考えられていた。労働者に支払うべき賃金を低く抑えて長く労働させるようなことは、労働者の経済的・社会的地位を下落させ、その福祉にとっても好ましくない影響がある。労働者の足止めの典型的なものであった。労働基準法が1年を超える労働契約の締結の禁止をうたっていたのは、このような理由からであった。ところが、今やすっかり様変わりしてしまった。最近の若者は、足止めなんかはされずに、足離れの達人に様変わりしている。
 こんなことは言いたくはないが、国が現代の若者を育成したのであろう。ダメだと解っていながら放置され続けた「ゆとり教育」、「やりたいことを自分探ししながら見つければ良い」などと言ってたんでしょ。「暗記はだめだ。問題を発見せよ。創造せよ」。小中高生に理由のわからないことを言って、教師には、「あんまり教えるな、生徒が解るまで気長にまとう」などといって、とどのつまりは、賃金の安い労働者を大量生産してしまった。派遣と期間雇用は、こうして労働形態の主流となってしまった。
 我々は、視野を広くしておかないと、騙されてしまう。使用者の観点からすれば、月額20万円出したい労働者を見つけるのは、難しいのである。ゆとりのある多様な働き方の奨励は、奨励などという褒められた話ではない。こうなってくると、解雇問題は労働政策の中心ではなくなり、失業率の上げ下げを労働政策の主眼とする考え方が登場してきても、少しも怪しく思わなくなるに違いない。
 労働者の労働能力がその高低と幅の違いによって評価され、労働の時間のみならず結果を重視するするようになれば、契約期間の長短、労働時間の長短など非統一的な管理こそが主流になるはずである。この変化は、企業の内部の事務的な、非生産的な業務を事務機器の発達と相まって広範に企業から蒸発させてしまうに相違ない。事務労働者を無機に、かつフルタイムで雇用する企業は、時代遅れだという評価にさらされるようになろう。この部門の求人は、長期的には減少することはあっても、増加はしないであろう。
 学生アルバイトでありながら店長であり、かつ店長にふさわしい処遇が確保されているという、これまでには殆ど考えられなかった雇用関係も、展開することとなるやも知れない。(パートの取締役が話題になったことがあるが、取締役が常勤である必然性はないのである)。多様な働き方を主として若者たちが選択するというときに、それは若者たちのフリーダム・オブ・チョイスの行使であるので、我々としては、口を差し挟むことではない。                             「名ばかり管理職」だの「ブラック企業」だのの若者を兵器で使い捨てて、平然としているような企業については、不買運動、サービス提供拒否、企業名公表などにより、その姿勢を正させるようにすべきである。労働市場には、選択される企業と選択されない企業とがある。有期かつ短期の労働契約でもって、労働者を常時入れ替えて人件費を抑える雇用管理を称揚するようなやりかたは、長続きして欲しくないのである。
 

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二〇七回 無期労働契約と有期労働契約②
 労働契約の期間の定めは、労働者がその使用者に対して負うこととなる労働する義務の継続する期間であるので、重要な労働条件といわねばならない。労働契約の期間の長短は、労働する労働者が正規か非正規かには関係がない。労働する義務は、契約論の原則的な思考に従えば、労働契約の当事者により形成されるものである。労働は、強制され得るものではない。労働する義務は、任意に形成され、任意に履行されるべきものである。いつから労働するか、労働の開始時刻、1日、1週、1月、1年の労働時間数について、労働契約当事者は合意することになる。引き受けるべき仕事の種類が約定されるか、または使用者の指示によってその種類が特定されるということについて、当事者間の合意を要する。労働する義務の任意性とは、このようなことをいう。
 職員の無期労働契約と職工の有期労働契約が区別の元々の出発点であったから、労働関係が極端な学歴主義に依存したまま推移してきたのだが、国民の高学歴化により、無期と有期の区別は相対化の運命を辿らざるを得ないのである。また、高学歴社会の労働者の国内・国際移動の活発化や賃金の再構成(年功賃金主義の妥当性への疑問)などの諸問題、派遣業解禁への反省(特に登録派遣の肥大と非正規労働者の急激な増大)と新たな立法政策の必要性という応急に対処すべき諸問題が、労働政策的課題として急浮上してきている。労働者人口の減少と技術水準の維持は、定年年齢の引き上げまたは定年制の廃止または禁止、育児・保育施設の充実などの施策により追求されるべきであろう。また、配置転換・出向が可能な労働者と不可能な労働者の区別とその間の相互移行の余地を考慮する労務管理なども、考えねばならないことである。
 労働契約を無期契約とするか、それとも有期契約とするかは、基本的に労働契約の当事者が定めるべき任意な事項である。労働者にも使用者にも、どちらをの労働契約とするかについて選択の自由がある。働き方の多様性と選択の自由との関係は、多様性の拡大に伴って選択の自由もまた拡大するという関係である。働き方の多様性とその拡大は、今後の労働契約論の中心的な課題となると思われる。使用者による指揮命令に従うばかりの労働のイメージは、人間にとって最も重要な生活手段たる労働契約が剛構造的な労働関係を創出し、柔構造的な労働関係を創出しなかったという事実にまとわりついていたことであった。
 鳶の親方が手子を連れて高層建築物の建設現場に行って、リベット打ちを行なうような場合、親方は施主と建築請負契約を結んだ建設会社から声を掛けられたのである。リベット打ちの終了までに3年を要するとしよう。親方は手子を3年間雇用するのである。鳶の親方は、建設会社との間にリベット打ちの請負契約を締結している。その仕事の完成のために3年を要する場合に、親方は手子との間に3年の期間の定めのある労働契約を結ぶのである。有期労働契約が締結される典型例は、このような場合に見ることができる。棟梁と大工の間の労働契約の場合でも、このよなことが有り得る。5年かけてトンネルや隧道を掘削するし完成させるような場合、この工事限定で労働者を雇うことがある。この場合も、有期労働契約が締結される。
 労働が肉体労働を中心としていた時代には、労働契約の期間が長いと体にも、健康にも好ましくない影響があったし、また労働者を不当に拘束するようなこともあった。だから、有期労働契約については、期間の上限を定めて、労働者を保護する政策が採用されたのだった。その上限の期間が、1年、3年、5年という具合に変遷してきたのは、技術の進歩が肉体労働の過酷さを軽減したこと、職場環境の技術的な改善により労働現場の安全性が向上したこと、労働者の不当な拘束の事例が殆ど無くなっていることなどの諸事情の関係していることである。
 他方、危険有害な職場は、技術の向上とともに増加もするのである。原子力発電業務は、定期的かつ確実な労働者の交替や配置替えを必要とするであろ。無期の労働契約であっても、特定の場所での労働を比較的短期間に制限する立法政策が求められることもある。ひとは、これを労働場所の期間制限ということができる。従って、労働の期間制限は、無期の労働契約の場合にも考えられるべき課題である。

錚吾労働法

二〇六回 無期労働契約と有期労働契約①
 有期労働契約は非正規労働契約ともいわれ、無期労働契約は正規労働契約ともいわれている。有期労働契約は、今後の労働紛争の増加要因の最大のものだという認識をもって臨むべき労働契約である。有期労働契約であると無期労働契約であるとを問わず、その内容は、個々の労働者と使用者との間の合意によって形成されるものである。締結すべき労働契約の期間の定めは、「労働者の処遇に関する事項」であるから労働条件である。労働契約の期間が有期か無期かにより時間給、日給、週休、月給などの相違をもたらすことがあるから、それが有期か無期かは、労働契約当事者にとって重大な関心事となる。
 最近の労働契約法の改正に関わって、特に有期労働契約の期間、更新、更新の回数、通算期間などに労使当事者の関心が集まっている。しかし、労働契約法に結実した労働政策の是非などの議論もさることながら、長期の経済的な収縮の結果ともいわれてきた失業者の越冬問題、ブルーテント村問題、ワーキングプア層の発生、格差社会の定着などの諸問題は、グローバル化した経済社会における金融証券関係におけるスピードアップした資金運用とその電算化したプログラムのワンタッチの実行とも密接に関わっているのであるから、国内的な対策のみによって乗り切ることが出来るのかどうかをも含めて考えなければならないのである。
 先ずは、一般的な話から始めることとしよう。労働契約は、様々な期間設定が可能な契約である。労働期間は、重要な労働条件であり、当事者間の合意によって定まる。労働契約の期間が満了する後に、両当事者は、これまでと同じ期間の労働契約を自動的に更新するという形式によって締結することも、これまでとは短期または長期の新たな労働契約を締結することもできる。季節的な繁忙期にのみ労働者を雇用する(年末から正月にかけてのみ、あるいは祖先のお祭りをする盆の時期にのみ労働者を雇用する)事業者もある。就労自体が危険なために、比較的短期間の雇用でなければならず、更新も避けるべき仕事もある。
 最近は、期間の定めの無い労働契約を正規の労働契約、期間の定めのある労働契約を非正規の労働契約ということがあるが、労働契約において雇用期間の定めを置くかどうか、置くとしたら期間の長さをどのようにするべきか、期間を季節に合わせて設定するのかどうかなどは、契約当事者の合意によって決定されるべきことである。従って、もしも、非正規なる言語が社会的非難の対象となるのであれば、この表現の仕方は誤りである。一部のマスコミのこのような言語の用い方があるので、最初にその誤りを正しておきたい。
 使用者が雇用した労働者であれば、その契約期間の長短に関わりなく、正規の労働者である。A使用者が雇用した労働者でない、その他のB使用者が雇用した労働者が、A使用者の支配領域で働くときに、その労働者はA使用者にとって、非正規の労働者である。B使用者にとっては、その労働者は正規の労働者である。各労働者の雇用期間の定めは、それぞれの使用者との合意によって定まる。
 登録派遣による労働者は、派遣業者によって職業あっせんされて、派遣業者には雇用されず派遣先の使用者によって雇用されているのか、あっせんと同時に派遣業者に雇用の上派遣先に派遣されているに過ぎないのか、あるいは派遣業者にあっせんされる個人事業者として派遣先で労働する者であるのか、よく観察しなければならないのである。登録派遣労働者は、派遣元と派遣先との関係が曖昧であることが多く、派遣元と派遣先の非正規労働者として、社会的保護の埒外に置かれかねない。その派遣期間は、使用者が分明でないときには、契約期間の相手もまた分明でないという困った事態が生ずることになる。この点については、もっと後に詳しくのべることとする。
 民法は、かっては、有期の労働契約の最長期間を1年としていた。労働者が劣悪な条件で長期雇用されると、健康を失ってり、怪我をしたり、最悪の場合には命を失うことになりかねない。特に危険な業務に従事する契約を締結すれば、その危険を労働者が自ら引き受けたという理屈により、使用者は死亡などの労働災害に対する責任を認めようとしなかった。だから、工場事業所での危険から労働者を保護するために、労働契約の最長期間を1年としたのである。

錚吾労働法

二〇五回 労働契約②キャリア
 労働契約の締結は、キャリアの観点から言えば、原則としてキャリア積み上げのスタート、開始であると言ってよい。しかし、労働者のキャリアは、基本的には使用者の指揮命令に従いつつ、使用者のために積み上げられるものであり、その積み上げ実績の人事評価に基づく処遇が伴うものである。企業サイドから観察すれば、キャリアとはそのようなものである。他方、人は、職業選択の自由があり、選択した職業を自己の仕事として経験し、向上させる権利を有している。これは、人の行う職業行為が自営的なものであれば、極めて当然の事柄である。芸術的な営為のほとんど総ては、芸術家の自己表現の自由の行使、自己表現の権利の行使であって、その妨害者に対して排除を請求することが出来る権利でもある。労働契約を締結したばかりの労働者にこれと同じように法的に保護されてしかるべき「キャリア積み上げ開始の自由」が帰属するかどうかは、おおいに怪しいことであり、「キャリア積み上げの権利」が帰属するとは言えないであろう。次のことについては、異論はないはずである。職業選択の自由が各人に帰属していることやその行使を妨げられないことは、しごく当たり前のこととして承認されている。獲得した自己の職業を自由に発展させる自由も権利も、営業の自由や表現の自由あるいは信仰の自由の行使として認められている。自己の支配領域内の自己表現としての職業的キャリアは、自足的かつ閉鎖的な空間での自己満足で終わるときには、そのキャリアには、他との交渉が存在しないから、外部評価にさらされることもない。このことは、当たり前のことである。
 しかし、ここで問題とするキャリアは、自己の支配領域には属さない他人の支配領域内での他人の財産権に関わりながら、他人の評価に服するキャリアである。この意味でのキャリアは、長年にわたって形成された企業内年功秩序の内部においては、年功的なキャリアすなわち主として勤務年数を主たる形成因子としているキャリアである。ごく一般的に言うと、この種のキャリアは、企業内でのみ通用するキャリアであって、その他の同業企業にも横断的に通用するキャリアとは言えないものである。A社のキャリアをB社でどう評価するかという問題はあるにせよ、A社からB社に移動すれば、当該労働者のキャリアは、原則として、最初から形成し直さねばならないのである。年功的なキャリアは、職業的なキャリアとは、同じではない。「あなたの仕事は何か」と問われたときに、年功的なキャリアが頭にある者は勤務する会社名をもって応答するだろうし、職業的なキャリアが頭にある者は職業名をもって応答するであろう。職業的キャリア観が明確な労働契約であれば、自己の選択する、しかし他人の支配領域内に存在する職業に特定的に就労するという使用者と労働者との間に合意が存在することとなるであろう。
 労働の期間、つまり何年の間労働しているか、何年の間労働したかというのを、キャリアと言う場合もある。何年のキャリアという場合が、これに当たる。非正規雇用の場合のキャリアは、主として雇用期間の長短によって計られることが多いであろう。何年のキャリアがあるかと問われるような場合である。この場合には、年功型の労働関係におけるキャリア・パスが語られることがある。期間雇用の場合における同様の発問は、期間雇用の期間の定めのない雇用関係への転換が語られたり、あるいは期間労働者正規雇用化政策が語られるときにも存在する。キャリアは、期間のみによって図られるものではないにしろ、それがキャリア形成の基本的な要素となっている。キャリア云々と言っても、その評価が抜け落ちるようでは、ほとんど意味のない言葉遊びとなってしまう。だから、キャリア評価をどのようにして行うかという問題とキャリア評価をどのように労働者の処遇に結びつけるかという問題をきちんと実行することが必要なのである。
 特定の使用者の下での労働の期間の長さをもって、解雇後の採用に関して先任権の順位を決定するという仕方を考えても良いだろう。アメリカでは当たり前の先任権のシステムは、解雇の自由が確保されているからこそのシステムだということを知っていなければならない。わが国においては、解雇の不自由が確保されているので、同じようにはいかないだろう。派遣社員のキャリアを派遣会社が考慮するとき、そのキャリアは単に派遣実績、派遣期間、派遣先での評価などを考慮し、その他の派遣社員に対して優先的に派遣する、あるいは劣後的に派遣する、あるいは派遣しないというようなことに結びつくこととなろう。派遣先会社は、派遣労働者のキャリアを指揮命令権が派遣先会社に帰属する限りにおいて評価することが出来るだろう。紹介派遣の場合には、派遣先は、派遣労働者の本採用を考慮しているわけであるから、派遣労働者の派遣元社員としてのキャリア以外のキャリアをも当然に考慮し、評価するだろう。
 しかし、キャリアをば、使用者がどのように評価するべきかという問題と、労働者が形成してきたキャリアを根拠として労働者ガ何事かを使用者に対して請求することが出来るかという問題は、同じではない。この同じでない問題を整然と区別して認識しておかないと、有期労働契約の無期労働契約への転換問題をまともに取り扱うことが出来なくなってしまうにちがいない。この問題は、有期労働契約の更新拒否事例において、何故自分があの労働者と相違して更新されないのか、更新されない合理的理由の開示をもとめるとか、更新しないことか使用者の更新しない権利または自由の濫用に該当するのではないかという問題が提起されるであろうことが予測されるという問題である。この問題が実際に発生すれば、それぞれが攻撃防御を尽くさねばならないが、使用者と労働者の視点は同じではないのである。ここで問題にしているのは、「みなし」規定が適用され、または適用されないことに関わる攻防なのである。 

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二〇四回 労働契約①キャリア
 働く意思と能力とがあれば、人は、年齢に関わりなく働くことが出来る。高齢だから働いてはいけないなどとは言えない。しかし、他人の指揮下に働く労働者の場合には、そうなっていない。。最近に問題となっているのは、65歳までの定年延長である。杜撰な年金管理と年金基金の流用に端を発した受給年齢の65歳への引き上げは、65歳までの雇用継続の要請を必要なものとした。しかし、65歳への定年年齢の引き上げ要請の最大の理由は、その通りだとしても、60歳以上の労働者の能力が就職間もない若年労働者よりも高いという事情もあるようである。若者たちの学習意欲、風浪意欲に問題があり、いわゆる「キャリア教育」を大学においても行うべきであると主張されてもいる。元々、大学教育は、キャリア教育であった。国家有為な官僚を育成するというどこかの大学の法学部が、そのよい例である。各地の医・歯・薬学部も、そうである。しかし、国家公務員について言うと、キャリアという本来のキャリアとは全く別個で珍妙な、職業専門人とは到底言えない集団を作ってしまった。配置換えが当然な公務員制度では、職業的専門人としての公務員を作ることも、目指すこともできず、職業的には半可人しか育成できない。鬼籍に入ってすでに久しい名物教授から伺ったことだが、「この人物は首相になると衆目一致の学生がいたもんだ」(法学部の「伝説の大秀才の福田赳夫氏」のことらしかった)が、「今じゃなんともならん」ということだった。これは、40年以上も前の話である。こんな話をお聞きすると、若気の至りで「嫌味な教授だな」と思ったが、キャリアという点では今昔の差に愕然とするのである。国家官僚制度に付着するキャリア制度は、世界的に見ても傑作と言われていた旧制高校(予科)、旧制大学、官庁、官庁内教育という一連のプロセスをいうものであった。戦後は、廃止された。そして、言葉だけが残ったのである。かっての国家公務員採用試験の内「上級職試験」の合格者をキャリア組などと言っていたが、これは、単なる試験の種別名称であって、採用後の徹底的な能力の実証によるキャリア制度とは何らの関係もなかった。官界は、国家・国民のためのものであるので、官民間人事異動の活発化を可能ならしめる複線的な「キャリア・パス」が形成されねばならないのに、待てど暮らせど、「キャリア・パス」の鼓笛隊はやってこなかったのである。
 ところが最近になって、キャリアという言葉が、よく使われるようになった。しかし、ここでのキャリアは、「福田赳夫氏」に代表されるかってのキャリアとは何の関係もない。企業内におけるキャリア重視は、ここ10年くらい前から始まっている。大学では、これから「キャリア教育」をするという。この背景には、労働することの意義づけが各人各様となり、企業の人事管理も企業の業態の多様化応じたものとならざるを得ないだけでなく、教育側と企業側との供給と需要の関係がより複雑化しているという事情がある。トゥレンヅ(流れ)とは恐ろしいもので、世の中をひっくり返すような政権が登場すれば別だろうが、今さら止められない。非正規社員への就職は、今や、就職先として重要な市場となっている。派遣解禁に踏み切ったあのときは、産業界の電算化推進のための有為な人材を確保し、高給で処遇するためには、派遣業に労働市場の一部を明け渡すべきだということだった。高級な労働力でなければだめだという派遣の制約は、今や、どこにも存在しない。その上、学生と企業の労働に対する価値観が乖離しつつあり、その間隙を埋めるのは容易ならざることだといってよい。長い坦斜面を20年も30年も下っているのだから、日本経済は危ういのである。中規模以上の企業の生き残り策は、高度な技術革新と事業の多面的な海外展開それに伴う労働者の配置、資本の投入や回収、諸種のリスクにともなうコストの負担などの企業戦略部門と戦略に従って動く内外の生産部門、サービスの供給部門を全体として動かすことのできるようにすることである。キャリアという言葉は、本来は、「職業」の概念と不離不足の関係にある。職業選択の自由に基づいて選択した「自己の職業」を人はどのようにしてその内容を高度化したら良いか、濃密化したら良いかというプランを策定すべきなのである。自己の「職業的能力」を高め、それを自己評価し、他人にも評価させるという「評価システム」のないところでは、キャリアという言葉を使うべきではないのかもしれない。
 しかし、最近のキャリアなる用語は、職業的な経験というよりかは、就労経験に近い。就労経験は、特定の職業経験ではなく、単なる就労経験またはその長短若しくは期間を意味していることもある。そのような意味であるのであれば、学生の教育の一環としての実習体験やインターン・シップ体験としてキャリアを語ることが出来る。また、技術系の大学における教育そのものもまた、キャリアとして位置付けることができる。また、企業内の諸種の仕事を遂行することもキャリア実績として、語られることもできる。人事課が「あなたのキャリア・パスについて話し合いたい」と申し出てくるときには、配置転換や早期退職の打診であったりすることもあろう。そうすると、キャリアなる表現で語られる意味には、一様ならざるものがある。大企業においては、回った部課の多少をキャリア実績の多少と言うこともある。キャリアが十分というときには、特定に仕事、例えば旋盤による金属の精密な削り出しが熟練の域に達していることを言っているのかもしれない。あるいは、企業内の様々な部署を経験することをキャリアを積むと言っているやもしれないのである。