錚吾労働法

二回 労働者と企業の衝突
 労働者と企業は、しばしば衝突します。有力な「唯物史観」によれば、労働者と資本家の対立は単なる対立ではなく、「非和解的な対立」であり、その止揚は労働者による革命によってのみ可能であるという。
 物理学、数学のように、計算可能で誰が追試しようが同じ結論へと到達する「科学的思考」を人間の労働に当てはめ、唯物的に思考すれば、資本と労働はあたかも力学的な安定の計算が可能なように、革命は必然であるという。確かに、労働者の敵手たる資本家が打倒されれば、矛盾は止揚されることになる。
 「資本の軛」に苦しむ労働者にとっては、「団結」こそが「解放」の出発点であり、「労働組合は革命の学校」でなければならなかった。この考え方では、労働者は団結し、助け合う仲間であるから、そこに[競争」の観念を容れる余地はない。[競争」は、労働者仲間を敵対させるから、労働者解放運動からは、排除されなければならない。
 企業を破綻させようとするのであれば、これ位のことを言わないと、説得力も迫力もありません。しかし、企業は、この手ごわい相手から繰り出される様々な批判を受け入れる弾力性を持っていました。5才の子供を炭鉱労働者として使用した企業は、肉体のない骨体であったと言ってもよい。革命家などからの批判が骨体に血管と肉を付けることになった。労働者冷遇では、企業そのものも縮小化するのである。これに気付いた人々は、批判の創造性を見ることとなった。
 この国では、就職は保障されてはいない。失業者をゼロにすることは、出来ません。大学生などの就職浪人を無くすことは、出来ません。無理やり働かせることも、出来ません。企業は、就職を無理強いされてはなりません。「職業選択の自由」、「就職の自由」、「企業の採用の自由」は、労働市場から強制的な要素を排除しています。労働者と企業の衝突は、これらの自由を前提とする話しなのですよ。
 労働者と企業の衝突は、個々的にまたは集団的に交渉し、協議して落ち着かせることになります。伝統的な「司法制度」による解決も、労働協約の定める制度(例えば、「苦情処理制度」、「任意仲裁制度」)での解決もあるだろうし、新設の「ADR」によって解決するというのもあるでしょう。
 労働者と企業の衝突は、「企業の国際化」、「多国籍化」などの事情によって、これまでとは様相が異なってきています。企業がより多くの利潤を求めようとすれば、日本は狭すぎるし、国境は邪魔でしかありません。関税で守ってもらおうなどというさもしい魂胆の企業は、自由貿易の敵なのです。ある国にあった就職のチャンスが、別の国に移ることもあるでしょう。自国民の労働市場が、外国人の労働市場になることだって、想定しておかなければいけない。「ゆとり教育世代」を採用するのを躊躇する企業は、確実に増加するであろう。
 「派遣労働者」、[短期間労働者」、「外国人労働者」と企業(およびその正社員)との衝突は、早晩激化することになるだろう。「合同労組」は、これらの衝突が多くなればなるほど、それだけ益々忙しくなるに違いない。「外国の労働組合」も、労働組合の競争相手として上陸してくるかも知れない。
 労働組合や企業を面食らわせたり、驚かせたりする気持ちは全くありませんが、労働者と企業の衝突は、これまでとはその広がりが異なるものに見えるようになるかも知れないのです。21世紀の労働法は、国際化する労働法として、これまでの労働法とは異なったものとなる可能性があるのです。これから労働法を学ぼうと考えているあなたは、未来をも見ることになるでしょう。