錚吾労働法

七四回 内定と内々定
 「内定」については、既に触れたけれども、「内々定」なんてのもあるわね。内定とは、「使用者に解約権が留保されている始期附きの労働契約である」という最高裁の定義があるんだった。
 そうすると、「内々定」ってのは、「使用者に内定的労働契約の解約権が留保されている内定始期附きの労働契約である」とでも言うべき定義になるのかな。使用者の方は、これで万々歳かもしれないが、内々定された労働者にとっては、ちっとも万々歳とは言えないわね。これじゃあ、「就職が決まったよ」という喜びなんて少しもないと違うんじゃないかな。
 「採用」が「採用内定」になり、「採用内定」が「採用内々定」になった。このような使用者の「採用決定」を「疑似採用決定」、「偽装採用決定」へと後退させた要因は、同じではない。いわゆる「過激派」や「共産党員」を採用してしまうと後々面倒だという「企業防衛」的発想が、「採用内定に企業を走らせた。
 「採用内々定」に企業をいじけさせているのは、広く言えば「企業防衛」と言えるかもしれないが、「2段階の解約権」を設定しようという企業側の理屈の根幹には、教育に対する不信感が潜んでいる。  小中高の「ゆとり教育」、大学への「教養科目廃止攻勢」と「専門教育の強化攻勢」は、結局は、「専門教育の困難」を招来せしめることに貢献し、言いたくはないが「人間力」の低下を引き起こしてしまった。教育者もひ弱になって、「文科省が・・に弱い」んだよ。情けない限りだな。
 「これでも東大生か!」と大先生に憤懣をぶちまけられても、「オイラは、知らない。あんたもいけないんじゃないの」としか言いようがないな。塾へ行って、「受験テクニック」、「面接テクニック」をマスターしても、すぐ後に「こ奴は何だ」てなことになっちゃう。  「人間力」の低下は、企業だっていばれたもんじゃないな。何とか「テクニック」に誤魔化されてるようじゃ、情けないやね。「エントリー・シート」使うようになって、時間をかけて求職者を見なくなってしまった。企業も、そんなわけで、採用人事力を下落させて、駄目になったな。「内々定」は、教育界と企業とが堕落した象徴だと言えるんじゃないのかな。「内々定の取り消し」される者は、だから、「犠牲者」だと言えるんじゃないのかな。
 企業の眼力には、疑問符をつけておきたい。少数とはいえ、「ゆとり教育」の成果として、個性的で8世間的な)自己表現に無頓着な、優れて有能な若者が登場していることも指摘しとかないと、公平じゃない。企業の採用担当は、こういう人材を評価する「ノウ・ハウ」を持ち合わせていないように感じるよ。自己の「思考を数学的に説明し、分からん奴には分からんさ」式の者を、内々定取消したら、失笑ものなんだよ。
 「内々定」の周辺事情は、ざっとこんなもんでしょう。ただ、普通の若者に言いたいよ。「国内労働市場ですらが国際化してきているのに、よくも安閑としておれるな」とね。それでも、若者の味方をしとくよ。企業の採用の自由は、広く認められるべきである。しかし、内定を超えて、内々定にまで突っ走るのは、その自由をだんびら化していると言えるのではないか。「内々定」を「内定の予約」と解する余地はないであろう。「内々定」=「内定」として処理すべきである。学生の能力低下は、責められるべきである。企業の採用人事能力低下は、もっと責められるべきである。
 従って、「内々定取消」=「内定取り消し」=「解雇」という図式になる。司法的な処理としては、予告手当や慰謝料の支払いを命ずることになる。ADRならば、「正式採用したらどうか」という話がまとまる可能性も無きにしもあらずってことになるのかな。