錚吾労働法

七七回 配置転換①
 労働者は、使用者の指揮命令に服する、服さねばならない。教科書には、これは常識的な事柄として記述されている。しかし、「ああしておくれ、こうしておくれ」と言われれば、「ガッテン承知の助」とか、返事しなくても心の中で「ちゃんとやらあ」とかの具合で労働現場は動いているのではないか。「一方的に指揮し命令する使用者」と「指揮され命令されて唯唯諾諾と労働する労働者」というのは、ちょっと違っていて、「やってくれんか」、「あいよ」という具合に、「合意」しながら「労働契約」は毎日展開しているのさ。[無理やりやらせる」なんてことは、出来ない相談だよ。
 法律家たちは、「指揮命令」、「指揮命令に従う義務」を簡単に言いすぎているんじゃないのか。確かに「労働契約の基本的構造」にはこのことが象嵌されているんだよ。なぜそうなったかと言えば、「汝らあまり働くべからず」という「ラテン教会(ローマのカソリック教会)」の長年の説教のおかげで、「おいらは働くのは嫌いだよ」という人々が多数いたんだ。それで、「合意に基づいて使用者の指揮命令下に入る」という、「使用従属論」と対になった考え方が、生まれたんだよ。
 とは言ってもだね、長年の労働法教育の成果?で、労働者は、使用者の指揮命令に服するのだという考え方が、有力になっちゃった。労働者は、労動力を売っちゃったのだから、買い手の使用者はそれを自由に処分できるという。さぁーお使い下さいという具合に、労動力を丸ごと(包括的に)使用者に委ねたのだから、使用者からの配置転換命令を、労働者は、(原則として)拒み得ないというような具合に、議論が展開されたんです。
 こんなのを真に受けて、人事管理をしたら、職場が暗くなるし、最近の言葉では、パワハラが横行するようになるでしょ。確かに、学者や裁判官が上のように言ってくれたら、使用者、特に管理職にとっては、人事管理がしやすいし、(持てつけない)権力まで持つことが出来たから、便利だったんだろうよ。A先生は、「ソ連の国営工場の工場長は工場内権力を一手に握って辣腕をふるう有能な人たちだから、日本の向上の工場長になってもらったら生産性が上がるんじゃないかな」などと述べておられた。学生だった私は、「そんなことしたら、日本の会社が滅茶苦茶になるだろうな」と思いながら、この卓見を聞いておりましたよ。
ゲルマン的発想やロシア的発想が、何となく優れたものに見えた時代があって、気の小さい学生達は、ビビっていたな。革新政権時代を、多分、待望する気概の先生方は、労働者をどうコントロールすべきかを考えていたんだと思うよ。問題は、そのような思想性の如何を問わず、労働者を指揮命令する立場の管理職にとっては、「辞令書」1枚で労働者を配置転換することができることのほうが、「一寸の虫のも五分の魂」などとゴチャゴチャいうのを聞かなきゃならんと言われるよりも、はるかに魅力的だったのさ。「右向けと言われて5年間右むいてて、左向けと言われて10年左向いていて、遂に取締役に出世した」なんて、笑い話は、ゴロゴロしてるのさ。
 ま、こんなわけで、好き嫌いはあるだろうが、少なくとも、上の見解は、企業に奉仕することになった。企業内秩序が、過度な「上司」・「部下」関係となって、「共同決定」とか「ArbeiterのMit-tarbeiter化」は、夢のまた夢となってしまった訳よ。