錚吾労働法

八二回 公務員制度改革
 政府は、「公務員制度改革」の一環として、「団体交渉権」を付与するという。このような報道に接する度に、本当にきちんと考えて言っているのかと思う。一言で言うと、「本当に大丈夫なのか」。「労働協約締結権」と「スト権」を認めない現行法は、「憲法二八条違反」の悪法であると、声高に言われてきた。しかし、特に「国鉄」、「電電公社」、「郵便局」の「3公社の民営化」後は、声高な主張は影をひそめ、「村山内閣」のときですら公務員職員団体に労働協約締結権とスト権を付与するという話は公式には出てこなかった。民営化前には、あれほど熱心にストライキを行った労働組合は、スト権を付与されてからは今日にいたるまで、一部を除き、ストライキを行っていない。「非現業の一般職公務員」も、この民営化以降は、目立った動きはしていない。国鉄の場合も、「国労問題」と「千葉動労問題」を別にすれば、JRへの移行は、比較的順調であったといえよう。
 いま問題となっている国家公務員制度改革は、職員団体が労働協約締結権もスト権も要求するのに急であったときには、行われなかったことである。霞が関が過保護の下に肥大化しすぎて、政治的な統制が利かなくなっているから、改革が必要であるというのだろうか。確かに、あの建物群は、「クレムリン」以上の威容(異様)であるし、「公務員宿舎」群も無遠慮にすぎる。国家公務員は、今や、国家を食いつぶす勢いである。どんなに無能でも、公務員は公務員だからという理由で過保護な地位を満喫することができる。こんなことはいけないんじゃないかというのだろうか。変えるという以上は、その理由をハッキリとさせないといけない。公務員の立場から言えば、現行制度がいちばん良いのかも知れない。
公務員制度改革は、国家及び地方財政の悪化という客観的情勢の下では、人事院制度その他の労働基本権制約の代償処置制度は重荷となり過ぎたこと、この代償措置の維持のために国民に負担を求めることの不可能性、財政改革のための公務員給与の2割以上の引き下げ(削減)の必要性などから回避できない、と考えられるにいたったのである。
 争議行為を否認したまま、団体交渉制度と労働協約制度を認めようという。その当否は別に考えられねばならないが、団体交渉制度を認めるに際しては、よくよく考えなければならないことがある。民間企業の企業別組合と同じように、公務部門の労働組合が組織されるとは限らない、ということである。「公務員が加入する労働組合は、この労働組合でなければならない」(団結指定)という制約を被ることになるのだろうか。
 公務員を代表する労働組合が合同労組だということも、あり得ないわけでないだろう。公務員にも労働組合加入の自由が、保障されなければならない。合同労組が団体交渉の相手となる事態は、想定されているであろうか。
 給与交渉が妥結に至った場合、多分、そのままでは給与支出はできないだろう。給与は法律、条例でもって措置しなければならない。議会審議の結果、妥結額は支払い得ないということもあり得る。この場合、協約の給与高と法定給与高との差額の取扱は、どうなるのか。この場合も、団交することになるのか。そうだとすると、その相手は誰なのか。議会の議長なのか。あるいは、2段階団交はありえないから、妥結額との差額は、債権額としてのみ、差しあたっては、履行強制できない債権額としてのみ存在するのであろうか。
 団交権を承認するすれば、団交は誠実に行われなければならない。国家や自治体の財務諸表を出せと組合に言われるとして、国はどこまで資料を出すことができるのか。官僚制は、労働基本権の否定によって維持されていたという側面もあろう。官僚達が団交担当者となるときに、これまでの守られたポストを懐かしく思うことになるかもしれないであろう。