錚吾労働法

八四回 公務員制度改革
 「公務員の団結権」については、「職員団体」を「オープン・ショップ」に構成してきたところである。最近は、そうでもなくなったが、オープン・ショップに止めているのは、「団結自由の原則」がどのような「団結形態を採用するかについての自由」を保障していることを無視しているとの批判が、盛大に行われていたのだった。公務員制度改革をすると言う以上は、この問題にも真剣になってもらわないといけないだろう。
 かかる見解が優勢であったのには、理由があった。それは、「結社の自由」の外に団結権を保障している憲法の意味を、どのように理解すべきかという問題である。「結社の自由」は文字通りの結社の「自由」で、作るのも、メンバーとして結社に滞在するのも、辞めるのも自由である。これとは別個に、団結権を保障したのは、積極的に「団結すること」を勤労者に求めているからであるとする。だから、それは、何らかの「強制的な要素」を内在化させている特別なものであると理解されてきたのではなかったか。
 そうであったから、オープン・ショップを公務員の職員団体に押し付けがましくしている現行法には、憲法違反のそしりをうけても仕方のない面があるとされてきたのだった。しかしながら、このような考え方は、一部の職業的な労働運動家には都合のよいものであったにせよ、国民一般を対象として人権を保障する憲法のとらえ方としては、遺憾ながら国民が素直に首肯することが出来るものではない。あの「ワイマール時代」に、「結社権と団結権の相違」がどこにあるかが問題となったことがあった。団結権た結社権の相違は、団結権にはスト権が含まれる点のあるとされたのだった。日本とドイツとでは、公務員制度が異なるから注意せねばならないが、これによって争議行為が出来る雇員・労務者と出来ない官吏という公務員制度の二分法が完成し、今日にまで及んでいるのあ、ドイツなのである。
 団結させられるのが団結権だというのでは、どの団結体に団結させられるのかをはっきりさせなければならない。どれでもいいから兎に角団結だとでも考えていなんてことはない。「団結一本化」で、労働界が大喧嘩になるにきまっている。そして、現実につばぜり合いは、大変なものだったのだ。どうも、「団結することこそ団結だ」という訳のわからぬことを言っていたほうが、政治的に無難だったようなのだ。団結させられる「勤労者」は、「無知な大衆」である。だから、勤労者は、その導き手たる前衛的な団結体の指導者によって指導・教育されねばならない。まあ、こんな具合に考えられていたのだった。団結の主人公たる勤労者は、団結権は特別だという者達から、見下されていたんだよ。
 別に公務員制度だからという訳ではなく、団結権と言おうが、結社権と言おうが、同じことではないかな。よく「団結選択の自由」と言われるけれども、これには「指導者選択の自由」も含まれるし、「団結仲間選択の自由」も含まれる。日本で団結権を語るときには、実はこのことはかなり重要なことである。団結形態が「企業別組合」となったのも、このことと関係していた。日本人は、基本的に「農耕人」であるから、毎日会うことが出来て、話すことが出来るのでなければ、信を置かないのである。「万国の・・」という雲をつかむような話は、苦手なのである。会社だって同じ。突然にやってきて「多国籍企業」だというのもあったが、日本の会社は、仲間作りを周到にしてから出かけていくだろう。誰と結びついて系列化するかは、資金のやり取りを含む重要な決定である。
 勤労者の団結については、苛めてきた歴史があったから、もうしませんからと、結社権を勤労者用に注意的に規定したんだよ。労働組合を「革命の学校」として勤労者を鍛え上げたければ、そうすれば良いのである。しかし、憲法のレヴェルでは、それは白紙にしてあって、どう色彩化するかは勤労者が決めることである。勤労者は、良く観察して、加入したり、脱退したり、とどまったりすればよいし、自分で結成してもいいのである。クローズド・ショップは、だから、基本的には、憲法レヴェルでは採用不可能なのではないか。加入強制のユニオン・ショップでも怪しいものだ。自由に覚醒した個人が、自己の自由な決定に従って団結し、団結を維持し、連帯している場合に、強固な団結体が実現されるのである。