錚吾労働法

二〇四回 労働契約①キャリア
 働く意思と能力とがあれば、人は、年齢に関わりなく働くことが出来る。高齢だから働いてはいけないなどとは言えない。しかし、他人の指揮下に働く労働者の場合には、そうなっていない。。最近に問題となっているのは、65歳までの定年延長である。杜撰な年金管理と年金基金の流用に端を発した受給年齢の65歳への引き上げは、65歳までの雇用継続の要請を必要なものとした。しかし、65歳への定年年齢の引き上げ要請の最大の理由は、その通りだとしても、60歳以上の労働者の能力が就職間もない若年労働者よりも高いという事情もあるようである。若者たちの学習意欲、風浪意欲に問題があり、いわゆる「キャリア教育」を大学においても行うべきであると主張されてもいる。元々、大学教育は、キャリア教育であった。国家有為な官僚を育成するというどこかの大学の法学部が、そのよい例である。各地の医・歯・薬学部も、そうである。しかし、国家公務員について言うと、キャリアという本来のキャリアとは全く別個で珍妙な、職業専門人とは到底言えない集団を作ってしまった。配置換えが当然な公務員制度では、職業的専門人としての公務員を作ることも、目指すこともできず、職業的には半可人しか育成できない。鬼籍に入ってすでに久しい名物教授から伺ったことだが、「この人物は首相になると衆目一致の学生がいたもんだ」(法学部の「伝説の大秀才の福田赳夫氏」のことらしかった)が、「今じゃなんともならん」ということだった。これは、40年以上も前の話である。こんな話をお聞きすると、若気の至りで「嫌味な教授だな」と思ったが、キャリアという点では今昔の差に愕然とするのである。国家官僚制度に付着するキャリア制度は、世界的に見ても傑作と言われていた旧制高校(予科)、旧制大学、官庁、官庁内教育という一連のプロセスをいうものであった。戦後は、廃止された。そして、言葉だけが残ったのである。かっての国家公務員採用試験の内「上級職試験」の合格者をキャリア組などと言っていたが、これは、単なる試験の種別名称であって、採用後の徹底的な能力の実証によるキャリア制度とは何らの関係もなかった。官界は、国家・国民のためのものであるので、官民間人事異動の活発化を可能ならしめる複線的な「キャリア・パス」が形成されねばならないのに、待てど暮らせど、「キャリア・パス」の鼓笛隊はやってこなかったのである。
 ところが最近になって、キャリアという言葉が、よく使われるようになった。しかし、ここでのキャリアは、「福田赳夫氏」に代表されるかってのキャリアとは何の関係もない。企業内におけるキャリア重視は、ここ10年くらい前から始まっている。大学では、これから「キャリア教育」をするという。この背景には、労働することの意義づけが各人各様となり、企業の人事管理も企業の業態の多様化応じたものとならざるを得ないだけでなく、教育側と企業側との供給と需要の関係がより複雑化しているという事情がある。トゥレンヅ(流れ)とは恐ろしいもので、世の中をひっくり返すような政権が登場すれば別だろうが、今さら止められない。非正規社員への就職は、今や、就職先として重要な市場となっている。派遣解禁に踏み切ったあのときは、産業界の電算化推進のための有為な人材を確保し、高給で処遇するためには、派遣業に労働市場の一部を明け渡すべきだということだった。高級な労働力でなければだめだという派遣の制約は、今や、どこにも存在しない。その上、学生と企業の労働に対する価値観が乖離しつつあり、その間隙を埋めるのは容易ならざることだといってよい。長い坦斜面を20年も30年も下っているのだから、日本経済は危ういのである。中規模以上の企業の生き残り策は、高度な技術革新と事業の多面的な海外展開それに伴う労働者の配置、資本の投入や回収、諸種のリスクにともなうコストの負担などの企業戦略部門と戦略に従って動く内外の生産部門、サービスの供給部門を全体として動かすことのできるようにすることである。キャリアという言葉は、本来は、「職業」の概念と不離不足の関係にある。職業選択の自由に基づいて選択した「自己の職業」を人はどのようにしてその内容を高度化したら良いか、濃密化したら良いかというプランを策定すべきなのである。自己の「職業的能力」を高め、それを自己評価し、他人にも評価させるという「評価システム」のないところでは、キャリアという言葉を使うべきではないのかもしれない。
 しかし、最近のキャリアなる用語は、職業的な経験というよりかは、就労経験に近い。就労経験は、特定の職業経験ではなく、単なる就労経験またはその長短若しくは期間を意味していることもある。そのような意味であるのであれば、学生の教育の一環としての実習体験やインターン・シップ体験としてキャリアを語ることが出来る。また、技術系の大学における教育そのものもまた、キャリアとして位置付けることができる。また、企業内の諸種の仕事を遂行することもキャリア実績として、語られることもできる。人事課が「あなたのキャリア・パスについて話し合いたい」と申し出てくるときには、配置転換や早期退職の打診であったりすることもあろう。そうすると、キャリアなる表現で語られる意味には、一様ならざるものがある。大企業においては、回った部課の多少をキャリア実績の多少と言うこともある。キャリアが十分というときには、特定に仕事、例えば旋盤による金属の精密な削り出しが熟練の域に達していることを言っているのかもしれない。あるいは、企業内の様々な部署を経験することをキャリアを積むと言っているやもしれないのである。