錚吾労働法

八五回 使用者の範囲
 使用者の範囲と言うと、ちょっと面食らうかも知れません。使用者は使用者であって、使用者以外の者が使用者となるわけはないだろう、と言う者がいても何ら不思議なことではありません。そしてそのように言っても、殆ど正しいといって良いでしょう。なぜならば、誰が使用者かという問題は、労働契約の一方当事者たる使用者だと回答して良いからです。
 しかしながら、ある会社で労働している者は、その会社の労働者ばかりではありません。会社とその取引先会社の関係も、複雑化しています。一人会社が法人とは何ぞやなどという疑問など吹き飛ばして承認されてしまえば、会社の労働者であった者が、会社から独立の経営者となって、自分の勤務先であった会社との密接な関係を維持しつつ活動することができます。
 そのとき、前労働者の率先した会社設立の結果としてそうなった場合と会社が率先して労働者の独立を支援した結果としてそうなった場合とが、区別されるであろう。また、企業がある企業との長年の取引の結果、企業の間に優劣関係が生じて、お互いに法形式上は独立の存在でありながら、企業間融資の結果として一方が他方の株式の大半を取得することもある。特に部品製造会社が消滅するのを座視していては、製品を組み立てられなくなるから、子会社化して財務も連結して金融支援をすることも、別に珍しいことではない。そうなれば、役員の派遣など経営陣の送り込みをして、赤字会社を黒字転換させるための様々な手段が講じられることになるでしょう。
 あるいはまた、会社の1工場であったものを会社として独立させて子会社とし、安定にいたるまでの間、金融支援するというようなこともあるだろう。特に技術の進歩が速く、開発速度を高める目的で、全社的な人事異動から遮蔽する必要があってそうすることもありうる。これは、研究開発部門の会社化の手法であって、研究開発資金の効率的な運用の観点からなされ、所期の目的を達してしまえば、従業員を元に戻して閉鎖することもあるでしょう。
 このような場合に、労働組合はどこを相手に団交したらよいのだろうか。実は、本日労働委員会関係者がこれに関わる熱い議論をしました。面白いなと思って、感心して聞いておりました。実を言えば、いろんな意見がありますが、この問題は団交政策の問題です。どこまでの者を労働組合の団体交渉の相手とするのが適当かという問題で、労働委員会が裁量的にどこまでの者を団交に応ずべき「使用者」とするかということなのです。これを、労組法7条2項の「使用者」という言語的表現をどのように解釈すべきかという問題ではありません。
 この区別が弁別されないままに、労働委員会的手法の問題と裁判所的手法の問題が同一レヴェルで議論されてしまった印象を持ちました。だから、分かったような、分からなかったような感じでお帰りになった委員もいたはずです。労働委員会は、紛争の終結、紛争の拡大の予防、労使関係の安定を念願して、使用者の範囲を考えればいいのであって、過度な「使用者の範囲の拡張」は百害あって一利無しとしなければなりません。
 裁判所や、労働委員会が範囲を拡張すればするほど、紛争を誘発することになります。裁判所は民事事件としては、軽々に拡張してはなりません。労働委員会は、不当労働行為救済申立事件においては、裁判所のように民事事件を扱うのではありません。労働委員会は、こうした方が適切だろうという観点からするのです。
 中央労働委員会の最近の議論を聞いていると、裁判所に救済命令を取り消されないようにするためにはどうしたらよいかを考え過ぎて、労働委員会の手続を民事訴訟手続化しようとしているのではないかと疑わざるをえません。この姿勢は、労働委員会は裁判所の下位に位置づけるという姿勢であって、こういう姿勢のままで「労働委員会の活性化」など言われるのは迷惑なのです。
 非正規の労働者が社員バッチをつけていたかどうかなどの瑣末なことまで言いだすに及んでは、入構時の入構可能者の確認のためにバッチを渡しているに過ぎないこともあるのを知らないのかということになろうよ。裁判官の目は、守衛さんの目と同じなのかな。この際何でも並べておこうという具合に、教科書に書いてあることもあります。そんなことは、労働委員会、特に公益委員にとってはどうでもよろしい。ちょっとだけ広げれば、うまい具合に集団的労使紛争を終結させられると判断するときには、そうするのです。法律家の悪い癖は、労働委員会には持ち込まないでもらいたい。かく言う自分も、法律家なのですが。