錚吾労働法

九〇回 原子炉事故賠償問題と国際条約 
 労働法教室と銘打っていながら、この問題を取り上げる理由は、原子炉事故を何回か取り上げてきたからである。29日の朝日新聞朝刊が、この問題を取り上げている。多分、この報道によって巨額な損害賠償請求が、日本でなく外国でなされることになるとの趣旨であった。
 わが国が加入したり締結している主要な原子力についての条約や協定は、27本あるようである。朝日新聞が危惧しているのは、外国法の損害賠償法が適用されることとなって、賠償額も巨額化するということである。本当にそうなるかどうかは問題であるが、①パリ条約(PC)、②ウィーン条約(VC)、③補完的補償条約(CSC)の骨子について記述しておくのも脱線として許されるであろう。
 ①のPCは、「原子力の分野における第三者責任に関するパリ条約」というもので、1960年に、経済協力開発機構原子力機関(OECD/NEA)において採択され、1968年に発効した。OECDのヨーロッパ加盟国主導の条約である。2004年には、「原子力の分野における第三者責任に関するパリ条約改正議定書」(2004PC)が採択されているが、発効していない。
 この条約は、OECD加盟国の内のEUメンバー15カ国を締約国としている。未発効の2004PCの締約国は、PC締約国のフランス、ドイツ、イタリア、イギリスなど15カ国とスイスである。PCおよび2004PCは、原子炉事故の損害補償に関わる締約国間の利害関係の調整を試みる条約であると言って良いであろう。このリーディング条約たるPCの特色は、「原則として不可抗力抗弁を許さない無過失責任の原則」、「原子力事業者責任の原則(国内法による運送業者の責任を妨げない)」、「賠償責任額の限定と限定額の最低基準」、「専属的裁判管轄の承認と判決の執行義務の承認」、「賠償のための資金を確保するための保険その他措置の確認」、「賠償措置額と実損害額の差額の国家補償」、「戦闘行為、敵対行為、内戦、内乱に起因する原子炉事故に対する面積」の諸点に看て取ることができる。これらは、その後の条約にも共通する事項となっているものである。
 賠償の対象となる損害は、「人の死亡、身体の傷害」、「財産の滅失、毀損」であるが、裁判所の管轄地の法が決する「経済的損失」、「環境損害の現状回復措置のコスト」、「環境損害による収入減損」、「災害・損害防止のコストとその措置により生じた損害または損失」である。1事故当たりの事業者の責任限度額は、2004PCでは、7億ユーロを下回らない額である。裁判管轄は、事故が生じた締約国の裁判所に専属する。専属管轄の定めは、非締約国にも適用するとしている。
 大要このような内容のPCおよび2004PCが示している枠組みは、この条約の目的として明記されているように、原子炉事故によって発生する損害または損失を早急に補償するとともに、事故によって原子力の平和利用と平和利用のための技術開発が阻害されないようにするというためのものである。東電の事故は、PC締約国、2004PC締約国に、明らかな歩調の乱れを生じさせることとなった。日本における途方もない程に巨額な損害、損失の具現は、頭の中で想定したこととは隔たりがあった。
 ②のVCと③のCSCは、PCおよび2004PCがOECD/NEAで採択されたものであるのに対して、IAEA(国際原子力機構)で採択された条約であるが、基本的な枠組みは殆ど同じである。PCおよび2004PCはEUメンバー、敢えていえばユーラトムを念頭に置いた条約である。これに対して、IAEA先導のVCおよびCSCは原子炉を有する総ての国の参加を想定している。従って、2004PCと比較すると、損害補償最低限度額が3億SDRで、7億ユーロよりも低く設定され、また1億5千万SDRであることもあって(3億SDRを用意できない事業者もあり、補償措置を講ずることが出来ない国もある)、弾力的である。
 SCSは、VCおよびSCSの構造上の難点を「補完的補償」の考え方によって補強しようとしている。VCの締約国は、中東欧、中南米IAEA加盟国34カ国で、改正VCの締約国は、アルゼンチン、ベラルーシ、モロッコ、ラトヴィア、ルーマニアの5カ国である。SCSの締約国は、アルゼンチン、モロッコルーマニアアメリカである。アメリカは、2008年にSCSを批准している。これらの締約国は、アメリカを例外とするが、必ずしも補償能力が強固とはいえない。「補完的補償」の構想は、従って、現実的なものと言えそうである。締約国は、原子炉事故に備える「補完基金への拠出」を義務付けられている。締約国の拠出額の計算式は、次のようである。
 計算式: 原子炉熱出力1MW×300SDR+原子炉熱出力1MW×300SDR×0.1
考え方によっては、原子炉産業の原子炉施設の輸出や外国への企業立地としての原子炉施設の建設を念頭に置いている条約が、SCSだと言うことができるであろう。イランや北朝鮮の核開発問題は、アメリカとフランスの原子力産業のつばぜり合いの問題だと言うこともできる。
 朝日新聞が言うように、安全神話で準備を怠ったといえる。原子力損害賠償法は、各電力会社に補償料を国に納めさせることとしている。しかし、東電事故の現実の前には、それは、スズメの涙である。2010年末の累計で約150億円しかない。これが、現実である。政府が当面予定している支出額は、1200億円であるとの報道もある(毎日4月13日)。SCSに加入したいと言っても、事故後では簡単な交渉であるわけはない。結局は、「国内版の補完的補償制度」を充実させるしかない。中電や関電も、東電の事故後に上の計算式で拠出せよと言われても、そう簡単には了承しないだろう。結局は、議会がきめることである。