錚吾労働法

九五回 賃金①
 労働者は、「労働の対償」としての「賃金」を得て、それを「生活の糧」として生活している。人間に内在している「労働力」は、無限にあるわけではないので、労働するに先だってそれを再生産しなければなりません。食事や睡眠がそのために必要ですが、労働の質を維持向上させるための自己投資も必要です。賃金は、通常は、「労働時間」を基礎として計算されていますが、「目標の達成度」や「実績」をも考慮しています。賃金は、単なる「時間給」単位で計算されているわけではありません。労働が単純であれば、労働に対する賃金的評価も簡単です。そうでなくなる度合いに応じて、労働に対する賃金的評価も単純ではなくなります。
 「労働組合」の「賃金交渉」は、企業の「年次の賃金表改定」にとって重要な意味を有しています。しかし、「労働組合の交渉力」は、賃金原資額の決定とそれから逆算する「年齢平均」の「賃金額平均」に集中しています。個々の労働者が使用者と交渉して自己の賃金額を決定するチャンスは、あまりありません。昔も今も、「労働者の交渉力」は、使用者のそれに比べ脆弱です。長期間の「ゆとり教育」は、労働者となったかっての生徒の力量を確実に希薄化しているようです。だから、平均的な話であるが、労働者個人の交渉力も、まだまだ低下しそうである。この予測は、実を言えば、かなり深刻な問題で、将来の賃金水準の低下をが避けられないことを意味します。
 労働に様々な目標を掲げる者達がいます。労働は、「自己実現」の手段であり、また「自己完成」の目的を達成しようとするものであると言われています。大部分の労働者は、しかし、もっと即物的です。労働は、賃金を獲得する手段である、と言うでしょう。賃金は、労働法的な定義は別として、生活の糧を得る際の「決済手段」となります。現在の経済は、「アウタルキー」でなく「貨幣経済」です。労働者にとっても、これは所与であり、動かしがたい事実である。労働者は、自己の労働力を他人に売って、その対価としての賃金をうることによってしか決済手段としての通貨(「賃金」)を得ることができないのである。
 「農民」も労働者と同様に労働するが、労働力そのものを売っているのではなく、「農産物」を売って生活の糧を得ている。労働者も農民も、労働力を生産に投入することでは同じだが、単に売るもの(商品)が異なるというのみでなく、労働者の場合は、その労働力はそれを買った使用者によって生産に投入されことに特異性がある。その意味において、農民には「自営農民」がいるが、労働者には「自営労働者」はいない。労働者は、単に「労働する者」であるばかりでなく、「使用される者」なのである。
 労働者は、「自分のために」労働して賃金を得ているのではなく、「他人のために、他人に使用されて」賃金を得ているのである。その意味において、賃金はただ単に「労働の対償」なのではなく「使用されてする労働の対償」なのである。賃金の労基法上の定義規定は、「現象的な定義規定」であって、精確なものだとは言えない。