錚吾労働法

九九回 中央労働委員会
 「中央労働委員会」(「以下中労委」)は、厚生労働省の外局として存在する。わが国の労使関係に関して、「中労委」は、重要な役割を演じてきた。「証言構成・戦後労働運動史」などの大部の著作物を図書館などでごらんください。「公共企業体労働委員会」(「公労委」)と並んで、中労委は、労働運動、労働組合運動から生ずる各種紛争の調整を通じて、世間注視の的であったと言ってよい。貧しい時代の労働運動には、それぞれ真剣味があり、「中労委」及び「公労委」の活動、特に「調整」は、各委員と労働組合の幹部達との日ごろの付き合いを含めた人間関係の発露の現場であった。「あっせん」が「中労委」および「公労委」の主要な仕事であり、「審査」よりも重要な感があった。
 かっての言葉で言えば、「資本と労働の決戦」としての労働紛争。かく言われた大紛争は、本来ならば、「労使自治」の観点のみからは説明困難な面があったが、「中労委」はそれを「労使自治」の発露としての「あっせん案」受諾へと収斂させる困難な作業を担ったのだった。他方「公労委」は、「スト権奪還闘争」を掲げる「公労協」主導の紛争をより制限的な「労使自治」的解決へと導いたのであって、「中労委」とそん色ない活躍を見せてくれた。年配者にはいまだに鮮烈に記憶されていることであっても、最近では、「労働委員会」制度の認知度が低いと言って嘆いているのだから、隔世の感がする。要は、大争議時代が終わったことによって、「中労委」その他の「労委」の役割が、「調整から審査へ」と重点を移したのだった。三井三池炭鉱争議は、その転換点を刻する大事件であった。「呉越同舟」の「総評」の転換点もここにあったと見るべきであろう。
 「搾取する使用者の打倒と生産手段を労働者の手に」というスローガンを掲げての「団体交渉」は、歴史的な遺物となったが、指導者達も使用者達も大物だったから出来たことだったし、その助力者としての「中労委」もまた辛抱強い助演者であった。大向こうをうならせるような見事な終幕の派手な演出は、終わってしまった。その後には、目立たぬ「調整」と地味な「審査」が残ったのである。そして、その機能の重点が「調整」から「審査」へと移ったのである。「中労委」の機能のこの質的な変化を見過ごして、「調整」と「審査」の機能を単なる並列と見ていては駄目なのである。「中労委」作成の各種資料を眺めると、客観的な数字の羅列が多い。それはそれで有意なものとは思うが、構想力が見えない。
 「国家公務員制度改革」が待ったなしの状況になりつつある。「労働組合認証」、「団体交渉」、「調整」という手順は、「調整」を再び[中労委」機能の主座に据えることとなるだろう。何が「団交事項」かを区分けする「法律事項」と「政令事項」の決定に際しては、「中労委会長」の意見を聴取してもらいたい。波乱要因は、この区分けにあるはずだからである。「労働組合認証」の基準作成についても、同様である。