錚吾労働法

一六五回 INAXメンテナンス事件③
 労組法は、ある程度、融通無碍なところがあって、「使用者概念」が拡張がされて来たって言っただろ。しかし、何でもかんでも拡張じゃあ、法的安定を欠く結果になってしまうな。そこで、法的不安定を現出させない程度の拡張でないとまずいことになる。だから、確かにそうとは言えるという説得力を持つような法的な判断基準というものを容易しなくちゃならんのさ。石川吉右衛門という変わった名前の大権威が、「不当労働行為の判断は労組に甘くやってきたもんだが、それで良かったんだ」ってご教授下さったよ。だから、純情だったということもあって、ワタシャ、労組法とはそういう法律だと思って来ちゃったのさ。それにしても、日本の産業構造はもう当時のものではなく、労働する者達の意識も随分と変わってしまっているから、労組に軍配上げるにしたって、昔の労使関係の構造を下敷きにしたような考え方はできないわね。
 しかし、そんな昔であっても、上手く説明しなきゃならない事件はあったんだよ。「CBC放送管弦楽団事件」(最1小判昭和51・5・6)は、その例だったんだよ。最近の同種事案は、INAXメンテナンス事件と同日判決の「新国立劇場運営財団事件」(最3小判平成23・4・12)があるね。CBC新国立劇場の2件は、いわゆる芸術家事案であったんだよ。芸術家事案に関しては、(労基法の労働者とも言えるかという問題を含めてさあ)INAXメンテナンス事件と同列に扱えないので、この教室で後に取り上げることにするよ。
 さて、INAXメンテナンス事件に登場するCEの皆さん方が、労組に代表されて団体交渉することが出来る労組法上の労働者であるかどうかをどのような基準に従って判断したらよろしいかということが、問われているんだったな。会社は、「CEの皆さん方は独立の事業者で、わが社とは業務委託契約を締結している」から労組法に言うところの労働者には当たらない、と言ってるわけだ。これは、全く通らない話じゃない。それなりに筋の通った主張なわけだな。それをダメだと言うわけだから、どんな理屈でダメだと言ったかを知らなきゃ話にならないんだよ。基準と言うのは、こういうことなのよ。
☆「大阪府労委」(初審)の判断基準は、次のとおり。
雇用契約下にある者と同程度の使用従属関係にある者と言えるかどうか。
・労組法上の保護の必要性が認められる労務供給契約下にある者と言えるかどうか。
☆「中労委)(再審査)の判断基準は、もっと精緻で、次のとおり。
・一方的に契約条件が決定されているかどうか。                                                       
・会社の業務遂行に恒常的かつ不可欠な労働力として組み込まれ管理されているかどうか。
・業務遂行の日時、場所、方法等につき指揮監督下に置かれているかどうか。
・業務依頼に対する諾否の自由があるかどうか。
・報酬が労務提供の対価といえるかどうか。
 府労委と中労委の判断基準の関係は、府労委の判断を中労委がよしとする以上は、裁判所における司法審査に堪えうる(内容の)基準でなければならないところまでブラッシュアップしたという関係であろうよ。ま。当然に問題となる論点をINAXメンテナンス事件の事実関係から析出し、基準として示したということなのさ。中労委のこの判断基準の設定の仕方は、「団交しなさい」という方向性を使用者に指し示すと同時に、詳細に事実認定した上での「団交しなさい」という正当なものであるとの裁判所向けの説得ともなっているものなんだな。籾山神社の隣から来ているそこのY君よ、われほの言っとることばはー、分かっとんとね。赤くなっとんぞ。
 これらの判断基準に即して総合的に判断すればだね、CEの皆さん方を代表する労組とは団交しなくちゃいかんということなのさ。ということはだよ、事実関係からこのような判断基準を析出してんだから、おのずと、結論は水が流れるがごとくに出てくることになるんだね。なんだこういう流れなのか、面白いなという気になってくれたかい。法律学ってのは、面白いだろ。