錚吾労働法

一六八回 INAXメンテナンス事件⑥
 労組法上の労働者と言えるかどうかを判断する手法は、労委と裁判所とでそれほどの相違は認められない。しかし、例えば社員バッチの貸与を労働者性の証であると常に言いうるのかは、なお検討することを要するだろうな。A社の社員バッチをA社の社員でない者に着用させていることが、その者の労組法上の労働者性の認定に通ずることがある。しかし、一気に労働者だと結論へと導くのは、性急ではないのか。というのは、A社が社員でないものにバッジを着用させている意図や都合にも、意を配らなければならないのではないのか。それが会社への入門手形として用いられている場合があれば、バッジの着用は会社の正規労働者のみに限定されないんじないかな。これは言葉のマジックみたいなもので、社員バッチなる言い方をするんじゃなく、会社バッジと言えば印象がちがうよな。役所みたいにカチカチな所は別なんだが、民間企業は柔軟になってきているさ。カチカチな人たちがバッジだ制服だという議論をすれば、カチカチな議論しか出来ないのは、当たり前田のクラッカーだよ。CBC管弦楽団事件のときにもバッジのことが議論されていただろ。その時にも近視眼だなと思ったよ。企業は、役所のように誰であれ出入りできますという場所ではないんですよ。愛知県バッジ、三重県バッジ、岐阜県バッジ付けてるのは、私たちは公務員で住民の奉仕者でございますという意味だよ。もっと言えば、公務員としての身分を表示してんのさ。
 社員バッジとか企業バッジは、わが社意識の高揚のために作ったんだが、そればかりじゃないのよ。企業バッジをどのように活用して仕事に結びつけるのかを、企業戦略として考えているんじゃないのかな。従業員以外の者に企業バッジを着用してもらう場合の意図なり、戦略なりを度外視してるようじゃあ、ダメだな。門衛に入ってもよい人を識別させるために企業バッジを着用させることがあるだろ。従業員じゃなくても、仕事で長期的に出入りする者にそうしてもらうことはあるよ。あんたのその仕事をするときには、自由に出入りしてくれて結構ですという場合だよ。CBC管弦楽団事件(最1小判昭和51・5・6)のときにも、バッジのことが言われてただろ。何可笑しなこと言っとんのという印象だったな。結論はよしとしても、バッジのことは言わないほうが良かったんじゃないかと思ったな。
しかし、ここで言いたいのはそれとは別のことだよ。企業活動の生産規模の拡大、販売範囲の拡張、サービス業務の充実に伴ってバッジの有する意味なり、機能なりが以前とは異なったものとなり、会社にとっては無論だが、CEの皆さんのように従業員でなく仕事をする者にとっても、消費者にとっても有意義なものとなっていることに思いをいたさなければいかんのじゃないかな。バッジ、制服、作業マニュアルの三点セットには、重要な意味があるだろうな。独立事業者へのバッジや制服の貸与と着用の義務付けは、会社にとって危険を伴うが、それを考慮してもなお消費者に信頼して貰えるという効果が大であるし、業務委託される者への消費者の安心感・信頼感の獲得にも役立っている。バッジや制服を着用してもらう以上は、着用する者を教育したり、技術研修させたりして、この人ならば大丈夫だというのでなくちゃならないだろ。それは、反面業務委託される者への企業活動支援ともいえるんだよ。業務委託契約を締結するときに、仕事はこの手順で、使う部品と工具はこれだと決めておかなくちゃならんでしょ。わっしのやり方でやらしてもらいますなんて者に、業務委託ができますかいな。INAXメンテナンスのようにトイレの水もれだの、詰まりだの、浄水器の不調だのという問題に対処しなくちゃならない仕事を外部委託してる会社にとっては、これをもって従属なんて言われてしまったら窮するよな。
 だから、INAXメンテナンスは言うべきことを言わなくちゃならなかったんだよ。そうしないと、バッジ、制服、作業マニュアルの現代的な意味なり、機能なりが分かって貰えないんじゃないかな。そんなわけだから、すべて納得というわけじゃないんだよ。この事件は、論争のネタを提供してくれているし、同種事件を誘発することになるだろうよ。