錚吾労働法

一七一回 企業の変動と労働関係②法人格の否認ーその2−
 法人格を否認することによって具体的な紛争を落着させることが出来る範囲はどこまでか。ここでは、法人格否認の法理の及ぶ範囲を考えてみたい。前回では、それを考えるための具体的な紛争事例を指摘しておいた。すなわち、未払い賃金請求の場合、不当労働行為の救済としての賃金遡及払いの場合、同じく賃金遡及払いと原職復帰の場合、解雇者の雇用請求の場合である。これらの場合の外にも、配転者や出向者の原職への復帰などの場合もあるが、雇用請求の可否との関連で述べれば足りるであろう。
○未払い賃金請求の場合 
 前出の川岸工業事件、船井電気・徳島船井事件(徳島地判昭和50・7・23)、中本商事事件(神戸地判昭和54・9・21)、布施自動車教習所・長尾商事事件(大阪地判昭和57・7・30)は、未払賃金請求事件であった。川岸工業事件は、法人格の形骸化の事例であるとされ、その他事件は法人格の濫用事例だとされている。無論、かかる区別は、判例において裁判官が述べた言辞によるものである。いずれも仮処分事件であった点を考慮せねばならないが、未払賃金請求が是認されている。いかに仮処分事件であったにせよ、本案訴訟においても是認されるかどうかは別として、その可能性のない事例に仮払いを命ずることはないのだから、法人格否認の法理の適用が形式的な法人責任の原則を貫徹し得ないことを明らかにし、具体的事例における責任主体としての法人はいずれの法人かという問題を明らかにすることとなった。ただ注意を要するのは、濫用事例か形骸化事例化に関わらず、法人格否認の手法は決して一般的ではなく、特殊だということである。
○雇用請求の場合
 法人格否認の法理の射程距離がどれくらいの範囲にまで及ぶかという問題がある。法形式的に雇用主体たる法人が存在しているのに、雇用主体ではない法人に雇用請求し、裁判所がこれを肯定する事例(前出の船井電気・徳島船井電気事件、中本商事事件、布施自動車教習所・長尾商事事件)は今後も発生するかも知れない。しかし、高裁段階では雇用責任についてはこれを否認する例(布施自動車教習所・長尾商事事件・大阪高判昭和59・3・30)もあって、裁判所の見解も分かれている。雇用主体が存在していれば、その法人格が濫用されたかどうかが問題となる。雇用主体が存在しなければ、その場合は形式的に法人格が存在していても最早実体的存在とは言えず、形骸化している場合をも含むが、法人そのものが形式的にも存在しないであろう。
 誰でも、ということは大学法学部で労働法を演習阿するような学生ならば、誰でも思いつくことがある。支配的な法人の下に被支配的な法人が存在するという事実である。法人間に支配・被支配関係が存在するという事実は、経済法の初歩的な事実である。この支配の実態が雇用関係の支配にまで及んでい手、被支配法人の法人格を濫用しているとか、濫用どころか形骸化させているようなときには、支配的法人に雇用責任のいくばくかを負担させるべきではないかという着想である。この着想の優れた点は、物事を平面的でなく立体的に観察することができることにあろう。しかし、難点もある。特に濫用の意図の所在に関することである。それは、支配的法人にあればよいのか。あるいは、被支配的にあればよいのかという問題である。この問題は、支配的法人による濫用しか考えなかったこともあり、気づかれていない。
 法人格を濫用するといっても、濫用主体は支配・被支配関係といってしまえば、支配法人に法人格濫用の意図があるという断定的な帰結にしか導かれないはずである。合理的な推論としては、その帰結がもっともであるとされる可能性が大だと言えるであろう。この問題を考えるときに、過去の判例にのみ依拠したり、判例をなぞって良しとはなし得ないであろう。支配・被支配の企業間の関係は、様々な要素によって複雑な絡み方をしている。被支配法人のほうが本体よりも勢いが盛んな例は、いくらでもあるからである。従って、判例などで問題とされた事例は、支配・被支配関係の負の部分だという認識でいなければならない。
 支配法人が被支配法人の株式をどの程度保有しているか、被支配法人は支配法人からのグループ内融資を得ることができるか、現にどの程度融資されているか、社長その他の使用者は支配法人から派遣されているか、いないか。派遣されているとして、それらの者は支配法人ではいかなる職位にあった者であるか。支配法人への復帰の可能性があったかどうか。被支配法人の産品・サーヴィスは、支配法人にとっていかなる意味(部品、外部委託その他)を有しているか等々、考えなければならない諸点が多々あるのである。支配関係云々は、これらをきちんと見ろということに相違なかろう。
 しかし、いくら丹念に見たところで、法人格の濫用の事実をもって、雇用責任にまで言い及ぶのは、疑問である。というのは、支配・被支配関係は事実の問題であり、誰が雇用主体であるかは、契約の問題、つまり法的な問題だからである。被支配法人の雇用能力喪失という事実ならば、実際に全国いたるところに存在している。したがって、法人格否認という法的操作をするには、労働者と雇用契約関係にはない法人に雇用責任を負わせることが適当であると納得することが出来るような関係を析出しなければならない。例えば、支配的法人の役員などが被支配法人の労働者に指揮命令をし、労働者がそれに従っているという実態が恒常的に存在しているようなば場合であり、それに従わない労働者には不利益が科されるという場合である。このような関係が認められれば、そこには契約関係もしくはそれと同視することができる関係が存在していると言ってもよいのではないか。このような場合であれば、未払い賃金の支払い主体、雇用責任の主体がだれであるかという問題は、いずれか一方の法人格の存在の主張を退ける形での法的推論を止むなしとすることができるのではないか。濫用は、限りなく形骸化に近いのであろう。