錚吾労働法

一七五回 新国立劇場運営財団事件③
 財団が労組からの団交要求を拒否したことは不当労働行為であるとし、団交を命令し、文書の交付を命令した都労委及び中労委の判断の可否について述べる。結論から言えば、団交命令は良いだろうが、団交命令を発するべきかどうか迷わざるを得ずに団交命令を発するようなときでも、機械的に文書の交付まで命ずることには疑問を感ずる。労委は、命令を発すべきかどうか迷うような場合には命令するものであるが、文書公布命令には抑制的でなければならないからである。東京地裁と東京高裁は、本件の事例では団交を命ずるのは適切ではないとした。裁判所は、なぜそのように考えたのであろうか。最高裁は、高裁判断を破棄し、差し戻したのであった。従って、団交を命ずべき事例ではないとした下級審の判断について、よくよくの検討がなされなければならない。
 東京地裁は、オペラ歌手のGについて「労組法上の労働者と認められないから、ユニオンの財団に対する本件団交申入れは、その趣旨としてGの将来の処遇等その労働条件の改善等を含むものであったか否かにかかわらず、義務的団交事項について団体交渉を求めるものではない」とした。東京高裁は、「Gは労働組合法上の労働者に該当するものとは認められないというべきであるから、その余の点について判断するまでもな」いとした。両裁判所は、オペラ歌手Gの労組法上の労働者性を否定している。労働委員会とは、顕著な判断の相違を呈しているのである。労委は、「指揮監督」なる言語を「従属労働」とまでは言えないが、それに類似したもの、または同視すべきものとして用いている。裁判所は、これに対して、オペラという集団的過激に特有の芸術的な指揮監督の意味で用いているのであり、Gはその指揮監督と一体となって芸術的な歌唱を提供する者とされているようである。従って、従属労働からは遠い距離にある指揮監督を、裁判所は語っているのである。
 東京地裁は、「労組法上の労働者であるかどうかは、法的な指揮命令、支配監督関係の有無により判断すべきものであり、経済的弱者であるか否かによって決まるものではない」とした。この点に関して、東京高裁は、「指揮監督関係は、同控訴人の主張するような意味においてもさることながら、労働力の配置がされている状態を前提とした業務遂行上の指揮命令ないし支配監督関係という意味においても用いられるほか、業務従事ないし労務提供の指示等に対する諾否の自由という趣旨をも包含する多義的な概念であり、労働組合法上の労働者に該当するかどうかの判断に当たり、これらの多義的な要素の一部分だけを取り出して論ずることは相当ではない」として、(多分)地裁の言をより敷衍しているようである。
 高裁のいう「同控訴人の主張するような意味」とは、労組法上の労働者性の有無の判断に際して考慮される指揮監督関係は、「労働の内容を指揮命令する権能の有無ではなく、労働力を事業目的に役立つように配置し利用するという意味での指揮命令の権能(労働力処分権)の有無をいう」との控訴人の主張を指している。これは、かのCBC管弦楽団事件判決(最小1判昭和51・5・6)からk控訴人労組がの引用したものである。従って、東京言際と東京高裁の言は、CBC管弦楽団事件の最高裁判決に異議を唱えた意欲的なものであった。こんなことを言っては関係者からのお叱りを受けるであろうが、CBC管弦楽団新国立劇場で公演するオペラおよび楽団の力量の差を裁判官は意識したであろうし、(相対的なことではあるが)楽団そのものの固定性・組織性と歌手の移動性をも考慮したのかもしれない。敢えていえば、楽団と歌手を同列には論じ得ないということであったであろう。その意味においては、特に高裁判決は、かなりの力作であったといってよい。
 CBC管弦楽団事件は、楽団員とCBCとの間の契約が当初は専属出演契約であったのが、優先出演契約に変更され、さらに自由出演契約に改められたのであったが、最高裁は、契約の変更にも関わらず、
・「楽団員をあらかじめ会社の事業組織のなかに組み入れておくことによって演奏労働力を恒常的に確保しようとするもの」である、
・自由出演契約の下では「楽団員は日々一定の時間的拘束を受けるものではないが、会社が必要とする場合は随時一方的に出演を求めることができ、楽団員は原則としてこれに従うべき基本的関係がある以上、・・会社が指揮命令の権能を有しないということはできない」、
・「出演報酬も演奏と言う労務提供それ自体の対価であり、その一部たる契約金は最低保証給たる性質を有する」から、楽団員は、労組法上の労働者であるとしていたのである。
 従って、楽団員とオペラ歌手とでは、労組法上の労働者性が争われる場合に判断枠組は別異であるべきかという問題が提起されることとなった。この問題を、CBC管弦楽団事件最高裁判決の判断基準をそのまま適用して、以前と異ならない旨を明らかにし、別異の判断枠組によるべきではないとしたのである。その意味では、楽団員もオペラ歌手も異ならないのである。最高裁は「Gが被上告財団との関係において労働組合法上の労働者に当たることを前提とした上で、被上告財団が本件不合格措置を採ったこと及び本件団交申入れに応じなかったことが不当労働行為にあたるか否かについて更に審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻」したのである。この結論は、多分、大方の予想をうわまわっていたのではないか。都労委、中労委、東京地裁、東京高裁の共通の判断も差し戻されたからである。財団がオペラ歌手Gを契約メンバーとしないとした措置の不当労働行為性についても、審理し直せとしたのである。労委も下級審も、最高裁に面小手を決められたのである。
 原審における攻防は、不利益取扱の成否に重点を置いたものになる。財団が団交に応ずべきなのは、CBC権限楽団事件の判断枠組を最高裁が踏襲したことから明らかである。オペラ歌手Gの労組員としての財団内外での活動の状況をより詳細にし、それとの契約メンバーから外れたこととの因果関係を明らかにするよう求められる。他方、芸術的な判断は、客観的には検証できるものではない主観的判断たることにその特色がある。その芸術的な判断のなかに、Gの組合活動を目ざわりだとする意識があったのかどうか、あるいは審査員にそれを具体化するような発言があったかどうか等が、攻防の中心となるはずである。
 本件は、労委の判断と下級裁判所の判断とが全面的に対立した事例であり、法律論と芸術論とが押し合うような事例であった。ある意味何とでもいえるようなケースは、そうそうあるものではない。芸術に(労働)法はどこまではいって行くことができるかという根本的な問題も存在している。この問題との関係では、高裁判決は、もう一度いうが、力作だったのだ。だから、最高裁がどの程度CBC管弦楽団事件判決を修正するのかが注目されていたのである。その意味では、少し残念なのである。