錚吾労働法

一七六回 新国立劇場運営財団事件④
 この事件の労委から最高裁までの判断について、やや詳しく追跡してきた。最高裁判決を客観的事実として観察すれば、最高裁は契約の形式にとらわれずに、オペラ歌手Gの労組法上の労働者性の判断に際してはGが財団に組織的に組み入れられていたという事実をこそ重視しなければならないとしていることが分かる。組織的な組み入れ状態であることから指揮監督を説明できれば、指揮監督は組織的な組み入れ状態の単なる一局面を表現するものに外なくなる。そうだとすれば、指揮監督というような指標を法的な指標として形式論を展開した裁判所の議論は、最高裁にとってはどうでもよいことであったのであろう。このことが実務に与える影響は、極めて大きいと考えねばならないであろう。
 なぜならば、着眼点として示された事柄は、組織的な組み入れをばやや敷衍しただけのことに過ぎないからである。そして、この点は、最高裁CBC管弦楽団事件の次元にとどまるのではなしに、さらに一歩先を歩んでいることを意味するのではなかろうか。CBC管弦楽団事件では楽団員の発注に応ずべき義務があったとし、使用従属関係を彷彿させているが、本件では義務などとは言っておらず、出演申込(依頼)に応ずる関係といっているに過ぎない。応ずる関係であるから、応ずる義務のある関係ではない。これは、かなり緩い関係であっても、Gが財団に組織的に組み入れられているのでれば、Gが労働組合上の労働者たる地位をゆうすることを否定はしないという意味であるに相違ない。
 多分、この判決の読み方は、読み手によって同じであるとは限らないであろう。従って、軽々しくは言えないが、最高裁は、多様化する働き方と多様化する労働に関わる契約類型の展開が労組法上の労働者性を骨抜きにしかねないことに相当の警戒心を抱いており、脱法的な形式論に下級審が振り回されることがないようにしたかったのではないか。同日のINAXメンテナンス事件判決をも合わせ読むと、新国立劇場運営財団事件判決の最高裁の意図は、ここで忖度したことと大差はないどころか、小差もないであろう。
 結局、新国立劇場運営財団事件では、労働組合法上の労働者の範囲はより広くされたということとなる。東京高裁判決は芸術事案でもある本件に興味ある分析をしたが、最高裁にとっては、労組法上の労働者性を狭く誘導しかねない高裁判決は、労働者性を蒸発させかねない動きに鈍感であったという評価になったのである。今後の慎重な検討を期待したい。