錚吾労働法

一八〇回 黙示の意思表示と労働契約②
 前回では、黙示の意思表示に関するごく一般的な事柄について述べた。最近、労働事件において黙示の意思表示が語られ、裁判所がそれに応答せねばならないようになっている。期間の定めのある労働契約、期間の定めのある任用、派遣期間の終了の場合に、黙示の意思表示による期間延長がなされたとか、正社員となっているなどの主張が増加しているようである。しかし、黙示の意思表示による契約関係の成立または契約期間の延長は、黙示の意思表示による当事者の合意の形成が不可欠な要件であり、一方的な黙示の意思表示のみで契約関係の成立等が主張され得るものではない。また、当事者の一方の推断的な行為が錯誤によるのであれば、契約関係の形成は阻止されることができなければならない。
 推断的行為は、口頭や文書による明示の意思表示の場合の当事者の法的効果意思の表示力に比し、黙示の意思表示であるがためにその表示力において劣後することを避けがたいのではないか。しかし、明示の意思表示による合意の形成であっても、また推断的行為による意思の合致であっても、法的効果においては異なることはないので、それを強調しすぎるのは避けるべきである。同一の契約が成立したのか、あるいはその所定の期間が延長されたのかを推断的行為でもって語る場合と、別個の契約が相手が異なる当事者の間に成立したのかを推断的行為でもって語る場合とでは、意思の表示力が同程度であるとは理解できないのではなかろうか。
 契約は、要式契約でなければ、黙示の意思表示によって成立することがある。この点、非要式契約たる労働契約についても、言えることである。労働契約が両当事者の推断的行為によって成立することがあるとして、両当事者のどのような行為が労働契約を成立せしめる推断的行為として評価されるかが問題となるとともに、その推断的行為がいつなされたかということも問題となる。派遣労働者と派遣先企業との間に黙示の労働契約が成立するかどうかは、派遣労働者が派遣先企業の労働者たることを希求する推断的行為をし、派遣先企業がその使用者たることを了承する推断的行為をして、その間に労働契約が締結されたと評価できる関係が形成されているかどうか、両者ともそのことに異論が無いかどうかによるであろう。従って、黙示の意思表示による労働契約の成立を主張する者は、他方当事者がそのことに異論がなかったことを立証するか、または異論が無かったことを推断させる行為があったことを立証すべきなのである。
 派遣労働者が派遣先から指揮命令されること自体は、派遣契約によるものである。従って、派遣先による派遣労働者への指揮命令は、派遣先が派遣労働者を派遣先の労働者であると推断させる行為とはならない。また派遣労働者が、派遣先の労働者になりたいと心中思っていても、その労働もまた、労働が派遣先の指揮命令の下に行われるとしても、それは派遣元の派遣先に対する派遣契約の履行であるに過ぎないから、派遣先の労働者たる推断的行為とはならない。派遣契約期間満了後に更新されても、この理屈を修正する理由とはならない。派遣労働者を派遣先が雇用する義務は努力義務であるから、派遣先の採用の自由を法的に制限しているわけでもない。
 期間の定めのある労働契約の更新が連続的になされ、あるいはなされないままに労働関係が存続している場合には、期間の定めのない労働契約関係が形成されていると解されている。期間の定めのある契約を締結するという形式が最初にあったとはいえ、実質的な関係は、期間の定めのない労働契約であるということができるからである。これを黙示の意思表示による期間の定めのない労働契約の成立として説明するのは、筋違いといってよいだろう。
 使用者の勘違いによって派遣契約終了後に派遣労働者をそのまま派遣先の指揮命令下に働かせていたような場合には、労働者の側に派遣先に雇用されるという期待が生ずるかもしれない。その期待が法的保護に値する程度に達しているような場合もあるかもしれない。派遣先労働者の雇用の可能性についての発言や激励が繰り返し、不用意に行われた場合である。派遣契約終了後に、派遣先が直接に賃金を支払って労働させていた場合には、派遣先は使用者と評価される推断的行為をしているので、労働契約は成立していると解せられるであろう。