錚吾労働法

一九七回 労働契約法③合意の原則
 構想段階では大法典となるはずであった労働契約法は、一読すればよく了解することが出来るだろうが、契約的思考では当たり前の「合意の原則」(1条)を真っ先に掲げている。しかし、この点は良いのだが、構想段階の大法典主義のために、「合理的な労働条件の決定または変更」とか、「労働者の保護を図りつつ」などと言って、就業規則を意識したのではないかと思われる部分や、労働者保護法を意識している言説が挟み込まれてしまっている。使用者のしばしば一方的に定める就業規則を就業条件の労働者に対する申込文書とまで契約的に再構成する意図はないはずであるから、このような文句を差し挟む必要はなかったと思う。また、労働契約の当事者、特に使用者に契約法レヴェルでの労働者保護を図る義務を課し得るかは疑問である。就業規則の一方的な不利益変更の効力やその他の労働者保護の目的に関しては、国による監視・監督行政の課題であるとともに(立法論では、自治体の権限とすることも選択肢だということを指摘しておきたい)、裁判所による有効・無効の判断に委ねられるべき問題であり、また労働基準法その他の労働者保護法の改革の問題として位置付けられるべきものである。
 労働契約法の次元においてのみ「合意の原則」を展開すべきものとすると、「誘引行為」から「締結」にいたる過程を記述したり、「内定」、「内々定」「[試用」、「配置」、「社内勤務」、「社外勤務」、「テレワーク」、「配置転換」、「出向」、「海外勤務」、「業績貢献評価」などについての諸規定もまた記述されなければならない。「出向」規定(14条)は、判例の枠組みを示しているのみであるが(「懲戒15条」、「解雇16条」についても同様)、「出向合意」をどのようにして達成するのかという契約レベルでの記述が必要なのである。就業規則に関しては、懲戒規定を含めていかにしてそれが契約内容として受容されることとなるのかに関する手続規定を欠くようでは、労働契約法制定の前後で何も変わっていないこととなるのではないか。解雇に関しても、解雇に至る以前の手続(解雇の可能性の事前告知手続、変更解約告知手続や、解雇の可能性の警告手続)を整備したり、解雇とは異なる合意解約への誘導を可能ならしめる規律を整備すべきであったのではなかろうか。
 労働契約法10条本文の定めは、これもまた判例を引き写したものであるが、これもまた裁判所の判断に委ねているだけである。ここに規定されている事柄を契約に書き込むことによって、就業規則を契約内在化することが出来る。9条の合意重視規定との関係を考慮すれば、そうすることが適切であろう。不利益と言うが、何を基準として不利益と言うべきかは、簡単ではない。賃金を引き下げて定年年齢を引き上げる場合は、不利益なのか。休日を増やして賃金を引き下げるのは、不利益か。不利益変更に関しても、何がそれに当たるかを当事者間で合意を形成することは、有益である。だから、労働条件の不利益変更に当たるかどうか、法的効力を生じる変更かどうかを、裁判所まかせにしたとしか思えない規定を置くのは、当事者の契約実務には関わりのない事柄であろう。わざわざ労働契約法を制定したにしては、判例のリステイトメントに止まっているのである。
 労働契約の締結に際しては、雇用期間、就労時間、休日、時間外労働の有無、時間外労働の賃金の割増率、一時金の有無とその計算方法、従事すべき職種と配転の有無、出向の有無、就業の態様、就業の場所その他に関する予めの合意をしておくことが望ましいとは言えるであろう。他方、労働関係を柔軟な構造にしておきたい当事者は、問題が生ずるに際して適時の事後的な合意を達成することを望むかもしれない。この場合、何が何でも細かな予めの合意を達成する必要はない。また、労働条件決定の当事者は、個々の労働者に限定されているわけではなく、労働組合もまた労働協約によって労働条件を決定する資格を有している。労働協約の重要な課題であると思うが、例えば、配転(異種配転、遠隔地配転を含む)、出向(在籍出向、転籍出向)について協約的な合意を達成しておくことは、個々の労働契約の内容にも関わるることなので、重要である。
 労働契約は、1日雇用や一回限りの短期雇用から、期間の定めのある雇用、期間の定めのない雇用、アルバイト雇用、契約社員雇用、パート雇用、派遣雇用などまでの様々な雇用の形態がある。それぞれの雇用形態に応じて、合意すべき事柄には種差があるはずである。それぞれの労働契約も形態に応じて何を当事者間において合意を達成すべきかを、きちんと考えておかねばならない。特に、使用者は、雇用のプロ中のプロなのであるから合意すべき事柄を明確に提示して、雇用対象者と交渉して合意を達成されたい。労働契約形態の説明の際に、より具体的に述べることとする。