錚吾労働法

一九六回 労働契約法②合意の原則
 労働契約は、労働関係の当事者たる使用者と労働者との合意によって基礎づけられる。その内容もまた、合意によって形成されることとなる。しかし、労働契約の内容の形成を労働関係の当事者の自由な合意に委ねる「当事者自治の原則」を使用者のみが一方的に享受し、労働者にはその有名無実化した形式しか残されているに過ぎないという事実が否定し難く存続したという歴史的事実があった。これは、いわゆる「労働力の搾取」として資本主義を論難した根拠となった事実であった。「ガルブレイス教授」が「資本主義への最大の異議申し立て」と言った「カール・マルクス」の「資本論」を、参照されたい。資本論か看破した荒々しい資本主義は、「自由・独立・対等な契約」関係たる「労働契約関係の虚偽性」を暴露してしまった。「リヨン・カーン教授」は、「荒々しい骨格だけの資本主義から骨格に筋肉・血管・神経を張りめぐらせて人間らしさを備えた資本主義へ」と言った。「ヘルムート・コール」前ドイツ首相は、資本論を読めば我々のどこを直さねばならないかが判るのだと言った。
 人間らしい顔をした社会における労働契約を、当事者の合意の達成を助け、かつ合意の内容が一方の当事者の不利益にならないようにする社会的装置か国家的装置に連結する知恵が求められた。その装置が、装置無きときには労働者が使用者の言い分をただ丸のみにするしかない状態から労働者のポジションを上昇させるのである。社会的装置の筆頭は、「連帯」であった。「連帯思想」は、合意を「個々の合意から団体的合意へ」と変換し、団体的合意を個人が自己の合意として受け入れるという装置であった。「刑事共謀および民事共謀の克服」、「労働組合の放任または法認」、「争議行為の原則的法認」、「労働協約の契約的効力または法規範的効力の承認」という一連の出来事は、連帯思想の躍動的な成果であった。
 他方国家もまた、労働者の工場などにおける労働条件の改善に貢献すべきであった。工場法の制定による労働環境の改善、労働災害の防止体制への取り組みのみならず、労働契約関係への国家干渉すらを正当化する労働実態があった。ローマのラテン教会や軍隊までもが無関心ではいられない、改善すべき労働実態があった。かってイングランドには、五歳の幼児炭鉱労働者がいたのだった。イングランドが労働者保護法の母国だったことには、ちゃんとした理由があることであった。ここの労働契約に委ねたのでは、労働時間の短縮は不可能であった。国家が労働関係に干渉する契機は、最低限の労働条件の設定であった。労働法を勉強する者どもが労働基準法の歴史的な系譜を、イングランドに求め、あるいは日本の旧内務省の労働者の労働実態の調査や工場法に求めることには、理由があるのである。しかし、そうであっても労働契約関係の内容は、本来的には、労働関係の当事者によって決定されるべきである。国家による過干渉は、かえって、契約による労働関係の形成の要請に反するからである。従って、国家による契約内容の形成と(社会的)当事者による契約関係の内容の形成は、お互いにに適当に調整されねばならない。この「調整の原理」は、国家の干渉を最低限度の干渉のみを許すこととしているのである。
 他方、使用者は、その雇用する労働者を自己の施設において労働させる者である。使用者は、賃金を支払う以上は自己の欲する労働を労働者に求めることができる。労働者を生産工程に投入し、組織的な労働へと編成し、労働者の労働能力をコントロールする権能を、使用者は、労働契約を締結することにより獲得するのである。注意すべきは、労働契約の締結は、労働者に(自己の)職業意識の形成を促さずに、(企業への)所属意識を強固に形成させることになったことである。学校や大学を職業意識で横溢した状態で卒業する者は、少数派である。教育施設とその職員にも、職業人を育てるという意識が希薄なのである。市場にも、この仕事ならば賃金はどれだけという相場が形成されていない。だから、採用されたらいくらを支払うという従業員主義での労働条件の提示があるのである。企業の就業規則は、採用交渉の際に提示されてしかるべきものだが、実際には提示されていない。また、就業規則の内容は、殆どが労働基準法の引き写しだから、多少の勉強を厭わないのであれば、およその察しはつく。
 労働者の労働条件は就業規則の定めによるという場合、そこに書かれてある労働条件は、事実上、最低条件なので、その改善のため当事者は努力すべきである。新たな合意が形成されなければ、処遇は変わらない。就業規則は変更されることがある。その不利益変更については、原則的に合意を要する。変更前の就業規則所定の労働条件は、労働契約の中身となっている。従って、就業規則の変更は、同時に労働契約の変更を労働者に申し込むという使用者の行為でもある。労働条件は、常に改善されるというものでもない。経営数字が悪ければそれなりの対応をしなければならない。労働条件を切り下げる場合、使用者はその理由を懇切に説明すべきである。そうしても理解してもらえないときには、最早労働契約に関する合意が出来ない状態になったとして、「飲んでくれなきゃ、あなたは要らない」と言うことができるのか。これを「変更解約告知」という。日本は畳んで外国で生産するから外国へ行ってくれんか、賃金は半額になるがその国では高賃金で良い暮らしが出来ると言われても何ら不思議ではない時代である。このような事例の場合、合意の成立の可能性は低いであろう。
 労働組合は、労働契約ではなく労働協約の当事者である。労働協約は、労働組合と使用者との合意事項を文書化し、相互に紀名押印してあるものである。この集団的な当事者の一方たる労働組合の組織率は、長期逓減傾向にあり、労働者の過半数代表組合たる要件を満たすことが出来なくなりつつある。企業別または産業別の労働組合の代わりを、合同労組が果たすことが出来るようになるとは当面は思わないが、少なくとも確認の要があるのは、労働協約の労働条件その他労働者の処遇に関する諸規定の法規範的効力とその効力の拡張の制度を内在する労働協約を支える労働組合組織の衰退によって、労働組合が職場の労働者の過半数を代表する基礎を失いつつあることである。これは、全労働者に占める労働組合員数が少数派に転落しているから、労使合意のツールの脆弱性を示すものであり、労働協約制度の維持に暗雲を投げかけるものである。レ−ヴィッシュ的な言い方をすれば、労働協約制度は危機的な状況の中にあるのである。